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未唯空間歴史編の再構成 4

偶然が決めている

 全ては偶然が決めていきます。偶然が必然として、仮説を立てて、必要なものを見ていくしかない。では、集団ならできるのかというと、ローカルの情報を集めるぐらいです。

 歴史の本で多いのか、歴史の中の出来事を書いているものです。5.15とかロシア革命のことです。その人は、自分の力で情報を集めたり、体験をもとに、仮説を立てずに、世の中に出していく。それ自体はその人には意味があるけど、他の人にとっては、自分の仮説を説明する時に参照するするぐらいです。逆に言うと、読まれなければ、意味がない。

 重要なのは偶然です。一番の偶然はこの時代に生きている私そのものですけど。

 もう一つは偶然を自分にとって、必然と見る心です。そうでない限りは、今、動いている膨大なものに対して、何らかの見識を持って、再構成することはできない。歴史の魅力そのものかもしれません。だから、ジャック・アタリのように様々な情報から21世紀を見るというカタチでやれる人はラッキーです。

本に対する関心

 津田さんのように、自分がやっていることから、「動員の革命」という言葉が出てくれば、汎用性を求めるでしょう。では、「動員の革命」でどうなるのか、それを成し遂げるのは何なのか。エジプトの世界でどうなっているのか。そんなことまでは書ききれません。思っているでしょう。

 そこまで、混んだカタチで書こうとすると、未唯空間のレベルになります。256項目が中間にあります。それぞれが独立しています。偶然はその人の思い出かなり異なります。これは新刊書を選ぶ時と同じです。先週までは関心がなかったことが気になってきます。その間に偶然で何かを知ったからです。

 ヘーゲルと言うのは全然知らなかった。内なる世界と言うことがキーとなって、関心を持ってしまった。自分の概念に言葉が与えられる予感です。歴史の事例を偶然で知ることで、自分の世界を変えていきます。

 未唯空間は新しい事例をどのジャンルの項目に対応するかの確認を行っています。それで項目の概念を変えていきます。

考え抜く

 イメージしたあとに、色々な事例で持って、変えていきます。変えながら、シンプルにしていくことで、真理に近づくと言うのが弁証法です。考えれば、虚しくなり、考え抜けば、尊厳につながると言うのも、この分野です。

 考え抜くと言うことは忍耐強く、事例によって、それまで作ったモノを自分で壊していく作業なんでしょうね。未唯空間の再構成もその範疇に入ります。256項目で一つの空間を作っているから、時間が掛かります。そのときに、いかに壊し、いかにつなげていくかです。

時空間の位相問題

 歴史をどう解くのか。時空間の位相問題として解きますか。そうなると、答は何なのか。答があるはずがない。

 グローバルの答が出ても、ローカルでの答が出ないと意味がない。生活がどうなっていくのか。むしろ、ローカルの答から、グローバルの全体の流れを支援するしかない。位相関係と言うのは、多分、そういうことです。

 歴史はなぜ、緩急があるのか。ロシア革命は急に生まれて、ゆっくりと崩壊していった。そんな感覚があります。
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未唯空間歴史編の再構成 3

未唯へ

 帰れまテンの影響でモスに行きたくなっています。水曜日はモスです。

虚しさと尊厳

 パスカルのパンセで、考えることは虚しさと尊厳とのフリップフラップとテレビの講座で言っていた。

 虚しさは元々、死がある以上、全てが無意味だと言うことから来ている。考えてどうなるのか、そう考えると虚しくなる。過去の栄光も全て、そこにはない。

 考え抜くと、自分の中に単なる気休めでない、何かができてくる。それは人に評価させれるものでもなんでもない。自分のためのものです。

 私は未唯空間を勝手に作っている。人から評価される必要はない。自分の中の全てをそこに入れ込みたい。だから、再構成では、見栄を全て、外しています。本当にどうなっているのかを内なる世界で確立させます。それは個人の尊厳の問題です。

 その成果は何かというと、全てを知るということです。問われば、相手の立場でいくらでも応えます。それだけのパワーを持ちます。

歴史は見えない

 社会よりもはるかに歴史は見えないけど。時間軸というのは、非常に恐いです。広がりが大きすぎるし、すぐ、変わってしまう。結局は感想文なんでしょう。だけど、それが考えると言うことなんでしょう。

 ジャック・アタリの「21世紀の歴史」みたいな形がいいかもしれません。これは完全に予言書です。22世紀になった時に、21世紀を振り返っています。

私が生きている理由

 分からないのは、この時間軸の中で、私が生きているのか、そして、死んでいくのか。

 人間は一人では生きていけないというけど、本当にそうなのか。人類はこの時間軸を生きてきたのか。歴史といっても、ほんの断片しか残っていない。ここの人間が生きてきたものは何も残っていない。残っているのは、子孫という名の人間だけです。その人間も過去との関係は殆どないです。

 全てが幻想の中にいます。歴史と言う幻想をどのように自分のものにして、先につなげていくのか。間にいる人間としてはつなげる必要はないです。子どもだけです。一つあるとしたら、思想だけど、それもユーロッパと日本では大きく違います。

 生活の中で、歴史観は生かされていない。単に時間が過ぎていくだけです。

ヘーゲルは歴史哲学

 ヘーゲルは歴史哲学として、歴史をあれほど、細かく記述したのか。そこから得たものをどう展開したのか。政治形態においては、完全に大予測を行っています。その予測部分の言葉尻を捉えて、本にしてしまう人もいます。

 だから、あまり具体例には入りたくない。コミュニティが必要だというところで止めておきたい。あとは社会編に任せたい。だけど、理論的なところは述べないといけない。

 歴史観とその必然性です。歴史哲学も位置付けないといけない。読み込みが中途半端です。

歴史は膨大です

 歴史はあまりのも膨大です。かつ、時間軸が流れています。どんどん、去っていきます。そこで何かを考えるとしたら、自分の周辺での事例で考えるしかない。

 せめて、広げても、本の世界です。15000冊でも多くはないです。マルクスにしても、大英図書館で膨大に読んでいるけど、全てではない。

 ヘーゲルは歴史哲学で過去の資料を展開している。自分で考えて、歴史を再構成します。そこにあるのはローカルの全てがあるわけではない。グローバルにしても偏った考え方から推測していくしかない。
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共同幻想だった「国民国家」

『グローバル化の終わり、ローカルからのはじまり』より

もう一つは、アメリカ、ヨーロッパを代表する西欧近代文明を支えてきた国民国家というものを問い直すことです。

西欧近代文明は、かつての共同体を解体し、個人に分解させた上で、市民社会を形成し、個人を労働力として使用する資本主義を展開し、社会全体の統合と富の再分配の統治機構としての国民国家をつくったのです。

私たちは国家というものを、あたかも天から授かったものであり、国がいちばんの上位概念で、大昔からそれしかなかったかのように考えがちですが、日本では西欧近代文明の導入が進むなかで、明治維新によって現れた統治システムにほかなりません。

哲学者であり、私たちの活動の仲間でもある内山節先生は、次のように指摘しています。「国民国家とは、国民のための国家ではない。人間たちを国民としてバラバラにし、そのバラバラになった国民を国家のもとに統合し、国家と国民が不可分の関係にあるという「共同幻想」を成立させながら、それを実態に変えていく国家のことである。」(『共同体の基礎理論』農山漁村文化協会)

つまり個々人を、それまで強固に結ばれていた共同体から引き離して、「国民の名のもとにバラバラにし、国家に再統合し」「同時にかつての共同体が持っていた機能を国に預けさせ」、「国が富をはじめとするあらゆる権能を再配分する仕組み」それが国民国家であるというのです。

同時に、それを共同幻想だとも言います。明治以来、実体があるように思い込まされてきたのですが、実は、それはたくさんの矛盾を抱え込んだフィクション、つくりものなのです。

しかし、時代の流れとともに、国民国家の虚構性は次第に明らかになってきています。

東日本大震災後の復旧、復興の遅れのなかで、表面化しているローカルと政府の様々な権能をめぐる軋棒も、表に現れてきた虚構性の一つととらえることができます。

一方で、EUという国民国家の連合体が、欧州全体の人々の暮らしをどう守るか四苦八苦している現状をみると、国民国家の壁というか、その実体性と、ギリシャなど、一ケ国の虚構性が交錯している姿が見てとれると思います。

ただ、いずれにしても、私たちにとっては、次第に「国は頼りにならない」という考え方が一般的になってきていますし、国自体が財政問題をはじめ、行きづまっていて身動きのとれないなかで、何もかもを国にゆだねることを見直さなければならない時期に来ているともいえましょう。

国民国家に替えて私たちが暮らしをゆだねるべきものとは何でしょうか。

私はそれこそが、かつて人間たちが強固に結びつき、それ故に引き離された「共同体」から学び直しながらつくり上げる、新たな共同体(コミュニティ)ではないかと思っています。

内山先生は、こうもいっています。私たちに最も身近で、納得できる存在の集落や村、町、さらに地域という共同体。そこにお金の循環する仕組みも、国や大企業に任せずに組み入れるのです。

国民国家の統治システムの中でほとんど壊滅しつつある共同体を再評価し、すべてを国に任せずに共同体が取り戻すべきものは取り戻し、地域の中でお金を循環させる仕組みを考え、自分たちで運営していく覚悟を持たなくてはなりません」

そのとき、コミュニティは、外に開き、相互に連携しつつ、他国にも及ぶ新たな関係性を構築していけるのではないでしょうか。

私たちはいま、リーマンショック以来の一〇〇年に一度の金融危機と、一〇〇〇年に一度の大災禍である東日本大震災、原子力発電所の破滅的な事故、さらにTPP(Trans-Pacific Partnership 環太平洋戦略的経済連携協定)という米国によるグローバル資本主義の再来襲のなかに身をさらしています。こうした状況を目の前にして、明日にいのちをつなぐ方策を模索することは決して容易ではありません。

私は、いわば袋小路に入った日本に風穴を開けるためには、すべてを「お金」というものさしで図るのではなく、「いのちを紡ぎ、持続する」といったものさしで、かつてのローカルな共同体が持っていたさまざまな仕組みや知恵をよみがえらせていくことが重要であり、超高齢者社会が世界に先駆けて到来する日本で、未来を切り拓く日本再生のモデルを描き出すことが、アジア、世界から何よりも求められているのだと考えています。
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「お金」と「グローバル化」という呪縛

『グローバル化の終わり、ローカルからのはじまり』より

「お金が人を狂わす」とは昔から使われた言葉です。これは何も「拝金主義」と言われる人だけでなく、現代では、ほとんどの方がお金に「翻弄」されているのです。

「お金が人をおかしくする」とはどういうことかと申しますと、たとえば、原発事故後の福島県飯館村を訪れたときのことです。

飯館村は、福島第一原子力発電所から北西に四十キロも離れた場所にあります。「日本で最も美しい村」連合のメンバーでもある、のどかで風光明媚な山村でしたが、大量の放射性物質が降り注ぎ、山林も田畑も家屋も汚染し、目に見えない恐怖にさいなまれることになりました。

それは、これまでのように近くにある自分の畑から採った食べ物を食べるわけにはいかなくなったことでもあります。だからコメも野菜も買わなくてはいけない。いままでコメも野菜も買ったことなどない村人です。それがやむを得ず「買う」のです。

「コメなんか買ったことないのにね」と老人が苦笑いしながら話されていました。

当然ながらお金が必要となります。そして、お金で「買う」ようになると、思いがけない気持ちが生まれたのです。

「この野菜はいくらなの? これでは足りないんじゃないのかな」「いま買っておかないと、手に入らなくなるんじゃないか」といった強迫観念も生まれるのです。

「焦りのようなものが生まれた。それで、余計に買ってしまう」と一人がポツリとつぶやきました。

お金を出せば「何でも買える」のですが、そのことが人間の欲望を絡めとります。

原発事故以前なら、畑や家の米蔵から、必要なだけ持ってきて食べてきた人々が、お金との交換だけが生きるすべという状況になったとき、いきなり不安が生まれたのです。原発事故をきっかけに、普段着の人がお金に絡め取られたように見えました。いわゆる原発マネー以前の、生きる現場で起きた出来事です。

私たちは、第二次大戦後の飢餓の時代から高度成長によって豊かさを享受してきました。しかし同時に、「お金」は、私たち現代人を強迫観念でわしづかみにしてきたのではないでしょうか。

脅迫観念を「呪縛」と言い換えてもいいでしょう。「お金を持たないと生きていけない」という切羽詰まったような観念です。

現代人の抱く強迫観念には、もう一つ「グローバル化」という観念があるのではないでしょうか。

「グローバルに行動しないと、その流れに乗らないと、仲間に入らないと……暮らしていけない」という追い詰められた気持ちです。

これは、個人よりもむしろ企業がその呪縛にはまっているように感じます。

この二つの呪縛に追い立てられるようにして、私たちは毎日を過ごしています。そして、この二つは、実は表裏の関係にあると思います。

いま、グローバルに漂流するお金が猛威をふるい、欧州通貨危機など様々な問題を起こし、世界のすべての人たちを翻弄しています。そうしたなかで、政府も民間も無事で安心な未来をいかにつくり上げるか、模索しているのです。

しかし、そこにある一般的な答えは、

「日本の強い競争力を取り戻して、世界との競争に勝つしかない」「一生困らないだけ稼ぐしかない」という「グローバル化」や「お金を稼ぐこと」による解決法がほとんどなのです。

でも私たちは、そのこと自体に疲れ、またその答えが、私たちの未来を安心、安全な暮らしに確実に導いてくれるかどうか、疑問も感じ始めています。

これまでの常識の延長線上に当てはめれば、「競争力を取り戻す」、「お金をもっと稼ぐ」ということが、当然の答えの一つであったかもしれません。

しかしながら、二〇〇八年九月一五日のリーマンショックを起点としてグローバル資本主義の迷走という世界大の潮流変化が生じ、いま一つは、昨年の東日本大震災とそれに随伴した原発問題の発生により、日本の第二次大戦後の社会体制の組みなおしも必至の状況にあります。従って、私たちがいま直面している危機は、これまでの延長線上の「競争力」や「お金」で根本的に解決できるものではありません。むしろ、いま、私たちは現代文明における歴史の転換点に立っているのではないでしょうか。
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