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ファシズムは中産階級社会主義

『ハイエクの大予言』より

ファシズムや国家社会主義は、一種の中産階級社会主義である

 われわれはあまりよく知らないことですが、ナチス発生の秘密をハイエクは解き明かしています。要するに、社会主義の欠点を睨んで国家社会主義が出てきたということです。

 社会主義の理論は社会を資本家と産業労働者の二つの階級に分けるという考えを基礎に置き、資本家と産業労働者の二極分裂によって既存の中産階級が急速に消滅していくと考えていた。ところが、それは間違いであり、新しい中産階級が出てきたのです。

 旧社会主義政党--これはナチス以前の社会主義政党を意味しますIは労働組合という--職業集団の地位を上げることで支持を得たが、そのためにその集団を超えた支持を獲得することはできず、労働組合の地位向上によって自分たちの地位が悪化した人々の支持を得た別の社会主義運動が必然的に生じたと、ハイエクは分析しています。ファシズムや国家社会主義がまさにそれであり、「ファシズムや国家社会主義は中産階級の社会主義である」という表現は真実を語っているとハイエクはいいます。丸山真男はヒトラーを支持したのは小売商人などだといいましたが、その点は正しいわけです。

 ファシズムや国家社会主義とは、中産階級という新たな非特権階級による「労働貴族制」に対する反乱であったと、ハイエクは定義しています。要するに、ヒトラー以前の社会主義政党は産業組合労働者だけを大切にし、事務員、タイピスト、管理者、学校教師、商人、下級公務員といった人たちが取り残され、そういった「ホワイト・カラーのプロレタリアー卜」の人々が強大な組合のメンバーとして彼らの数倍の給料を取っている機関士や植字工に対して抱いた嫉妬心が、ヒトラーの運動に大きな影響を与えたとハイエクはいいます。そして、初期のナチス運動に参加した下層党員の平均所得は産業組合労働者や旧社会党員より低かったことも疑いがないことであり、その多くは没落していく中産階級で、かつてはよい暮らしをし、よい時代の面影を残す住まいや家具などの環境に住み続けている人も多かった、といっています。

 中産階級に育ち、家にはそれなりの家具があり、ちょっとした本もある。しかし、収入は何の教養もない産業労働組合に属している社会主義政党が守る組合員の何分の一しかない。この中産階級が憤憑やる方なく、共産党を追い出せと主張したヒトラー・を支持したということです。イタリアで「逆の階級闘争」という言葉が使われたそうですが、それはファシズムやナチスの運動の側面を見事に言い当てているとハイエクはいいます。

 また、ファシズムや国家社会主義は支持者として獲得した下層の中産階級に、教育や訓練を通じて指導者になることへの熱望を吹き込み、その結果、彼ら自身が自分たちを管理階級の一員にふさわしいと見なすようになったことでより強くなっていったとハイエクは見ています。そして、ナチスやファシストに加わる人がどんどん増えていったわけです。

 国家社会主義が勢力を強めたもう一つの要因として、社会主義教育で利潤への軽蔑を植えつけられていた若い世代が、リスクを伴う独立の職業に就くことではなく、安全が約束されているサラリーマンの地位に群がり、同時に自分が受けた教育から考えて高い所得と権力を与えられてしかるべきだと要求したとハイエクはいい、これが国家社会主義の本質だと指摘しています。

 今、日本ではリストラが行なわれ、銀行さえ危ないということで、公務員希望者が増えているようですが、これは決していいことではありません。また、山一謐券でも北海道拓殖銀行でも潰れる時代だから、銀行は企業に対して貸し渋りをするのですが、公立の小学校や中学校は潰れないから、そこの先生にはすぐに金を貸したりして、悪い傾向に拍車をかけています。このように、リスクがない職業が有利であっては困るのです。極端なことをいえば、殴られて死ぬかもしれないボクサーがいくら儲けてもいいけれども、区役所の公務員のよう

国家社会主義や共産主義運動の背後にある道徳的感情の強烈さは、おそらく歴史上の大規模な宗教運動にのみ匹敵しうるものだろう

 全体主義体制のもとでは、ある種の美徳は尊重され、ある種の美徳は滅びると、ハイエクは考えました。そして、何か前者で何か後者かは、「典型的プロイセン人」が持っている美徳と、彼らに欠けていてイギリス人に備わっていると思われている美徳を比較すれば明らかになるといいます。

 まず、典型的なプロイセン人の美徳とは、勤勉でよく訓練されており、冷酷といえるほど徹底的・精力的であり、任務に対して良心的・献身的であり、秩序・義務・権威への絶対服従を尊重し、自己犠牲や肉体的危険も意に介さないことだとハイエクは記し、この美徳は「与えられた任務達成のための効率的な道具」になるといいます。つまり、全体主義体制において価値のある美徳だということです。

 一方、典型的プロイセン人に欠けている美徳とは、他者の存在と他者の意見への寛容や尊敬、精神的独立や不屈の性格、上位のものに対しても信念を守ろうとする決意、弱者・病者への配慮、権力に対する健全な軽蔑や嫌悪で、これは個人主義的な美徳であるとハイエクは説明しています。さらに、自由な社会で人間関係をなめらかにする親切心やユーモアのセンス、謙遜、プライバシーの尊重、隣人の善意への信頼などが「典型的プロイセン人」には欠けていてイギリス人が持つ優れた美徳で、この種の美徳は個人主義型であり、商業主義が広がったところで開花し、全体主義や軍国主義の社会が広がるにつれて枯れてきていると、ハイエクはいいます。

 このように自由主義社会から見れば道徳を否定する体制としか思えない全体主義体制ですが、そこにいる大衆が道徳的熱情に欠けていると考えるのは間違いだとハイエクは指摘します。そして、国家社会主義や共産主義の運動の背景には、大規模な宗教運動が持っていたものに匹敵する道徳的感情の激しさが存在するといいます。国家社会主義や共産主義はある意味で宗教であり、それ独特の強烈な道徳感情があるというわけです。

 しかも、全体主義の側では個人の利己的な利益が理想的な社会目的の実現を妨げることを許す体制よりも自分たちのほうが優れているとさえ主張するだろうし、全体主義をつくり出したドイツの哲学者たちは「個人的な幸福に向けて努力すること自体が不道徳であり、課された義務を遂行することのみが称賛に価するといっている」とハイエクは記しています。

 私はここにドイツ哲学とイギリス哲学の大きな違いのIつがあると思います。ヘーゲルの哲学はドイツの将校を養成するテキストブックでした。それは非常に論理的で、覆すことは難しい。だから、これは軍隊の論理になりやすいのです。ところが、イギリスのほうはポップスやロックのように、国家の重要な使命は個人の幸福の追求と生命の保全であるということをいい、それがアメリカの独立宣言のもとになりました。だから、アングローサクソンは個人の幸福と生命、財産が一番大切だということを、哲学者が恥ずかしげもなくいった国です。

 もっとも、そのアメリカですら理想のために南北戦争を戦っているから、ヘーゲル的な哲学の範躊に入ることもやったわけで、片方だけになることは危険だというべきでしょう。ヘーゲルの理論は非常時の理論であり、平時は個人の幸福の追求、生命と財産の保持が一番重要だと考えればいいと思います。

 ハイエクも戦時においては、「すべてを制圧する一つの共通目的の前には、一般的な道徳や規範は存在の余地すらない」ことに近い程度の経験をするといって、場合によっては制約があることを認めています。宣戦布告した状況というのは異常の場合であって、そのうちに解かれるべき状態であるという認識を持たなければいけません。

 しかし、全体主義者の目には達成されるべき目的しか見えず、その目的によってすべては正当化されるとハイエクはいいます。だから、宣戦布告状態を平時にも持ち込めるのです。そして、これは面白い指摘ですが、「社会の共通目的の追求にとっては、個人の権利や価値観に基づいてブレーキになるものは存在しない」からそういうことになるとハイエクはいっています。
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本と図書館 組替えのロジック

ライブラリはバーチャル化

 ライブラリはバーチャル化できます。これに電子図書館とかツイッターなどの情報を含めることもできます。もっと、膨大な量の情報になります。これをどう使っていくのかの答がない。

 グーグルは、それら全てを公開させる所まで来ています。それを使って、新しい哲学ができたと言うことは聞いてはいません。人間が考えるために、ものごとを処理したらいいのか。それをどう検索するかはあるけど、整理する方が大事です。

 グーグルは、検索するということで、皆にツールを渡しました。それこそ、10年前に段違いになっているけど、人間の意識と知識はそれについてきていない。

ライブラリの意識と知識

 ライブラリにとって、必要なのは人間の意識と知識に結びつけることです。知識も、その人に体系だったカタチでバーチャル化していかないといけない。私にとっての未唯空間のように。

 意識はさらに大変です。コラボレーションしたこととか感じていること。考えていることを解析することです。それによって、初めて、行動に移ることができます。

図書館関係者の意識

 図書館の人間はこの力に気付いていない。狭い範囲だけで考えている。

 市立図書館は教育委員会との関係ぐらいしか考えていない。本と図書館の世界は広いものです。図書館関係者とか行政に対するプレゼンテーションを行えるようにしていきます。かなりの組替えになりそうです。

多読の必要性

 本の最大の魅力は多読です。色々な意見を知ることと大量情報処理を可能にします。これがない限りは考えることはできません。

 だから、アメリカの大学では多くの本を読ませる。日本の場合はエッセンスだけを教える。エッセンスだけ教えると言っても、先生によって、環境問題もそうですけど、偏っています。それでは、自分で考えられません。行動できません。

 市民参画の時も、チューターから紹介された、20冊の本を全部読みました。

組替えのロジック

 本と図書館の二本立て

 6.1 多読の世界:(本)本との対話 ☆多読の効果(図書館)図書館の観察 図書館に入り込む

 6.2 図書館を使う:(本)新刊書 読書(図書館)☆図書館ブランド 図書館の役割

 6.3 本から広がる:(本)影響を受けた本 ☆本から得たもの(図書館)図書館の可能性 地域の図書館

 6.4 支える:(本)大量情報処理 知恵を作り出す(図書館)市民を守る ☆図書館を支える

 6.5 検索:(本)☆調べる 学習する(図書館)情報センター 場の確保

 6.6 市民に役立つ:(本)個人環境 I love Library(図書館)市民に広げる ☆市民の役に立つ

 6.7 提案:(本)読書支援 生涯学習支援(図書館)☆図書館関係者 行政への提案

 6.8 内なる図書館:(本)アプローチ 情報センター(図書館)☆社会ライブラリ 歴史ライブラリ
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本と図書館の再構成

未唯へ

 朝の計測。73.3です。もう少し、多いと思った。

 昨日、ICレコーダを胸ポケットに入れて、間違って、録音状態にしておきました。自分の話したことは全て入っていた。相手の言葉はあまり聞こえていない。これも使えますね。そんな密度がある時は少ないけど。

本と図書館の再構成

 未唯空間の本・図書館編に入ります。どうしても、図書館に気を取られているが、実際に重要なのは本です。本は変革のために、重要な役割を果たすことに言及しましょう。自分自身を変えたのも本です。

 ツールとしての図書館、思想としての図書館、社会ライブラリとしての図書館、それらを結ぶのは本の魅力です。ウィゲントシュタインにしても、本として残っているから、感じるのです。すれ違った、池田晶子さんも同様です。だから、後ろにいくほど、様々な知識をどういうカタチで自分の中で取り持つのか。そんなことが重要になってきます。

 なぜ、世の中にこれだけの本があるのか。読まれずに、過ぎ去っていくものを多い。全然様相が違います。

 なぜ、作者は書くのか、思いをなぜ、そこにぶつけるのか。未唯空間は本なのか。そんなことをどうまとめていくかです。まとめる必要はないけど。寝ながら、夢の中で何回も語っていました。今も夢の中か、現実なのか、よく分かりません。目が開きません。

公共図書館という存在

 パブリックという概念が社会に及ぼす影響、そこからどう拡大していくのか、そして社会全体を変えるのか。Global meets Localにしても、それを最初に行って、実績をあげたのは、公共図書館です。本は買うものではない。皆の共通財産です。シェアするものです。

 作者はそこに思いをぶつけたものを、いかに皆に読んでもらうかが重要です。テッド・ネルソンではないけど、いかに作者を活かしていくのか、新しいエネルギーにしていくのか。著作権ネットワークの概念はそのためにあります。今度の電子図書の世界で可能になります。

 グーグルの全文検索も魅力的です。人間の知恵は出せば出すほど、出てきます。出し惜しんでも売り惜しんではいけない。

 イギリスのパブリックから公共図書館は始まった事例です。NZの公共図書館は本当にパブリックです。スタッフも気持ちがいいです。フィンランドのロバニエミ図書館も戦後からずっと、維持している。それが今の教育環境と産業を作り出した。

 そのベースは考えることです。考えるために、人の意見を聞く、本を読む。そういう世界を買うことでは独占できません。シェアすることでしか、達成できない。

本と図書館への拘り

 なぜ、私が本に拘るのか、図書館に拘るかには意味があります。そこに生まれてきた理由を感じたんでしょう。

 あまりにも、図書館環境に接するのが遅かった。集中的に行ってきたのが50歳からです。その時に米国図書館も自費で見に行った。良く、ここまで来たものです。身体が持つものです。精神が持つものです。もうじき、15000冊です。まあ、逆かもしれない。本があるから持っているのでしょう。

 なぜ、ブログで発信するのか。その元は何かというと、本です。

本と図書館の世界

 本と図書館というのはすごい関係ですね。これがペアになるときに、一つの世界ができます。

 買わないで、中身を読むことができます。これはクルマでも一緒です。買うのが目的ではなく、移動が目的です。そう考えると、世の中には中身だけで十分というものはいくらでもあります。それを皆で分ければいい。買うからなくなるのです。

 結局、共産主義もそれをしたかった。市民を支配しようとしたから、複雑になってしまった、ウクライナの農民の悲劇はそこから始まった。全国民でシェアすればよかった。集めて、分配しようとするのだ、集める所で躓いた。この関係はキッチリさせて、他のものに展開していく事例になります。強力な事例です。
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