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侍従には英雄なし

『はじめてのヘーゲル「精神現象学』より

「行動する良心」は、具体的な行動を通して多少なりとも社会に「善」を実現しようとする、いわば素朴な良心である。だから、そこにはたしかに行為の結果に対する十分な吟味が欠けている面がある。だがそれでも、その心意の真率さを考えれば、「行動する良心」がもたらす結果を全面的に否定することはできない。

しかし、「批評する良心」は、「行動する良心」の「行動」にひそむ「私的動機」の面を拡大し、そこを批判する。つまり、相手の「行動」を、ただその「利己的な衝動」という点だけで解釈し批判しようとするのである。

どんな美しい犠牲的行為や献身的行為でも、そこに自己満足、名誉欲、自負などの契機がまったく存在しないということはありえない。だから、相手の「行為」のうちにひそむ「利己的動機」、いわば動機の不純を突く「批評する良心」の批判は、「行動する良心」にとってはなかなか手強い批判となる。

ところでしかし、「侍従には英雄なし」ということわざがあって、これは英雄も高邁な動機だけで行為しているわけでないことへの批判である。だが、この批判は一面的にすぎるので、ここでは英雄よりも侍従の目のほうに問題がある。どんな立派な人間の行為にも必ず自己動機の側面があるが、侍従の目からは、つねに自己動機だけが人間のあらゆる行為の真の理由と見える、ということなのだ。

ともあれ、「行動する良心」は、自分の偽善を批判する「批評する良心」のほうにも、自分と同じく暗黙の欺脈々弱点があることに気づくことになる。「行動する良心」は素朴な良心なので、双方ともに利己的動機に固執していることを認め、まず、自分の矛盾の「実情」を相手に告白しようとする。そして、自分のほうでもそのことを認めたのだから、相手もまた自らの矛盾を認めて、互いに「承認」しあい「和解」しあうことを求める。

しかし「批評する良心」は、「行動する良心」のこの申し出を頑なに拒否して、相手を受け入れようとしない。そして、「これによって舞台は一変する」。

「行動する良心」は、相手のこの態度を見て、不正であるのは自分よりむしろ相手であると知る。たしかに「批評する良心」は、「行動する良心」に自己動機からくる内的信念への固執があることを的確に指摘した。しかし、自分のほうは、自らの矛盾を自覚しようとせず、自身の「美しい魂」に固執してあくまで相手を非難するという態度をとっているのである。

こうして、むしろ「批評する良心」こそ「精神」の本質を見損ない、否定しているのだと「行動する良心」は考える。「行動する良心」のこの批判には理由がある。普遍的な「精神」とは、主体的な「自己確信」としてつねに自らの思惟と行為を吟味しつつ、それがほんとうに「現実」との普遍的な関係を保っているかどうかを検証しようとする存在である。したがってまたいつでも自己の過ちを認めて修正しうる存在でなくてはならない。それが近代人の「良心」が「良心」たる所以なのである。

さて、はじめは「行動する良心」の内心の自己動機を指摘して、「良心」の本質的なあり方を示したように思えた「批評する良心」は、両者の批判のやりとりのなかで、むしろそれ自身が「正しさ」の普遍性にこだわり、そのことで「美しい魂」という類型へと陥っていることを露呈することになった。

「良心」は、「道徳」のもつ困難を克服しようとして現われた新しい近代倫理の精神だったが、それが、行動から生じる現実との矛盾を回避し、ただ理論と精神の純粋性に固執する方向に向かうならその本質を枯らしてしまうのである。
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絶対孤独からの発想

会社を使う

 会社に居ることの意味は、会社を使うことと、組織の限界を知ることです。会社を使うことは、研究開発部署の上司から習いました。社長になるつもりがなければ、会社を自分のために使いなさい!

 組織の限界は社会編と仕事編の中心テーマです

 当たり前だけど、決して従順ではない。中に居ながら、変えていくこと。これはスリルがあります。これは矛盾はしません。なぜなら、中に居ないと変えられない。

 なぜ、急いでいるのか。希望があるわけでもないのに。メーカーでやることは何か、ハッキリさせます。今の部署なら、色々な情報は集まってきます。だけど、あまりにも遅い。

個別のH

 それと個別のHに関することはやれない。これは確かです。管理部署も同じ状態です。ネットワーク会社を使って、ネットの思いを展開するしかない。

 個別のニーズはいくらでもあるけど、それが集まってこない。個別の対応では、ばらばらになってしまう。メーカーからは一律なものに拘るので、遅くて、使えないものになる。さらに、ニーズそのものが間違っている。

 無線もE配信にしても、H一律やっては意味がない。メーカのシステムをバリバリ使うことはありえない。これはHの問題です。メーカーに自分たちの意思を告げるべきです。メーカーも理解できないからといって、問題がないわけではない。これは原点です。

ヘーゲルの弁証法

 ヘーゲルもくどいですよね。同じ事ばかり言っている。もっと、簡単に述べよ! 弁証法だと答を一つずつ、ドンドン否定していくから溜まりません。

 一生懸命やっていることに対して、ああそうですね、と応えて、それで何が分かって、どう変わるんですか。次から次への変わっていきます。多分、答が出ないのが答なんでしょう。

絶対孤独からの発想

 相手にとって、自分がどうなのかを承認したがっています。絶対孤独からすると、それは無視できます。何しろ、生まれてきた理由が説明できていないのだから。説明できないものは存在しない。これも哲学なんでしょうかね。

 絶対孤独を標榜しながら、社会に提案するのは矛盾でしょう。絶対孤独と言いながら、組織からお金をもらっています。それなりに安定した生活をそれなりにしています。どこか、隅っこに居ればいいというのは、多くの人の感覚なんでしょう。

 絶対孤独でなくなるとしても、この世界はあまりにも狭すぎる。10年ぐらい変わっていない。マスターベーションをしているだけです。

存在と無

 考えることに徹します。感じたこと、考えたことをそのまま載せているブログはなぜ、ないのか。本来はライフログだと思うけど、商売道具になっている。

 存在と無の間は空ですね。何もないですね。両極端です。自分が存在するという意識と、外から見たときに無であるということしかない。自分を大きく見せるとか、認めさせようとするのは幻想です。特に、この小さな小さな世界でやっても、何の意味も持たない。

 無の存在が居る場所は無限次元空間です。いくらでも場所はあります。お墓のように。存在と無でありながら、生きていくために、重要なことは自立した心です。依存せずに、自分だけで完結させる。私の場合は大きな意思を偶然とはいえ、啓示的なものはあります。

 自立ならば、誰が居なくても存在できます。亡くなったは亡くなったで済む世界です。目をつぶればいいだけ。
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