サムエル記第一 25章23-44節
ナバルの妻アビガイルがダビデにしたことは、現代の「クレームに対する対応」にも通じることかもしれないと思いました。ここでアビガイルがダビデに、「それは夫のしたことで、私には関係がありません」と言ったとしたら、歴史は大きく変わったかもしれません。
ダビデへのことばを読み返してみますと、アビガイルには判断力があり、語るべきことばを的確に相手に伝える知恵が備わっていたことがわかります。けれども、人と人とのやりとりについて優れた知恵があっただけではありません。彼女は、神にあって物事を考え、人を見るという霊的な豊かさを神から賜わっていました。血気に走って何事かをしようとする人を説得し、納得させて、自分に非があったことに気づかせるのですから、このような人をそばに置くことができたらどんなにか心強いことだろうと、思います。
ダビデはアビガイルのことばに心が素直になり、サウルに対して自分が対応していることと同じところでナバルのことを見るようにと目が開かれました。34節の「イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて…」ということばが心に留まります。
頑迷なナバルは死にます。聖書は「主はナバルを打たれ、彼は死んだ」と記しています。人が神の領域に侵入することをせずに、神の御手に物事をゆだねることができたとき、主がなさることを私たちは目にすることができます。神が本来なさろうとしていることを、いつの間にか「私がしなければ」としてはいないだろうかと、心を探られます。