みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

与えようとしている

2016年01月25日 | 民数記

民数記 13章1−24節

 

 土日、フランクフルトからおよそ200キロほど北西にあるデュッセルドルフに伺いました。土曜日には家庭集会で、日曜日には礼拝で話をさせていただきました。「みことばの光」を用いて、聖書を通読している方もおられ、うれしかったです。デュッセルドルフ日本語キリスト教会の皆さん、いっしょの時間をありがとうございました。

 途中、ICという、日本ではほぼ消滅した「急行列車」に乗りました。狙いはライン川下りを列車で楽しむこと。あの有名なローレライとも初めての対面(写真)。3時間があっという間でした。帰りの車中は、ちょうどブンデスリーガのサポータ一行が乗り込んで来て大変な賑わい。陽気に歌ったり、気勢を上げていました。

 きょうの箇所を読み、以前夏休みに行うキャンプのための下見を毎年のようにしていたことを思い出しました。その目的は、狙いを定めた場所がキャンプにふさわしいかどうかを調べることで、だめな場合は中止にするという前提で行うものでした。ある年には、なかなかふさわしいキャンプ場が見つからずに、山の中まで入って行き、いよいよ道が終わろうとする場所に、吊り橋を渡ると別世界のようなすてきなキャンプ場を見つけたこともありました。

 けれども、ここでの下見は違います。神が約束なさったカナンの地を偵察するように、お命じになったのです。つまり、結果が悪ければカナンを与えるのはやめにしようということではないということです。神の約束を信じて行動する信仰が求められている下見(偵察)なのです。

 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」という主イエスのことばを覚えます。→マルコの福音書11章24節

 


主の手は短いのだろうか

2016年01月23日 | 民数記

民数記 11章16ー35節

 きのうも午後、近くの別の公園に…。池ががちがちに凍っていました! けれども、鳥も人も元気。今日もすぐ近くに鳥がとまってくれたのですが、慌てているうちに飛んで行ってしまいました。

 民の不満に限界を訴えたモーセに、主は圧倒的な力でお答えになります。モーセの上にある霊のいくらかを70人の長老たちに分け、彼らもまた預言します。このことで長老たちは、自分たちがモーセとともに重荷を負うことを自覚できたのではないでしょうか。

 もう一つは、うずらを降らせられたこと。これでもか! というほどのうずらを…。そのうずらを集める民の浅ましさも印象的です。これは、欲望に駆られた民へのさばきでもあったのです。

 「主の手は短いのだろうか」という主のおことばを目に留めました。ここでは肉が食べたいと不平をぶつける民に、食べて食べて吐き出すほどのうずらを降らせるということに現われましたが、もちろん、単に食べ物のことだけではありません。天地をお造りになったお方、罪人を滅ぼさずに贖い出して救い、いのちを与えるという不可能を可能にしてくださったお方だと聖書は語ります。

 預言者エレミヤの祈りのことばを記します。「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。」エレミヤ書32章17節

[おわびと訂正]「みことばの光」1月21日本文(50頁)7、8、10行目にある「四部族」は、正しくは「三部族」です。おわびして訂正いたします。

 


重すぎる…と思うときに

2016年01月22日 | 民数記

民数記 11章1−15節

 「この寒さが好きだ」と何人かの方がおっしゃっているように、この時期、寒さに縮こまらずに外に出るといろいろな発見があります。公園を歩くとたくさんの鳥のさえずりが聞こえてきます。iPhoneのカメラではこのぐらいが限度でしょうが、バードウォッチングが趣味の人にはたまらない環境だと思いました。

 イスラエルの民が動き出しました。その途端次々に起こる問題の中で、指導者モーセはすっかり行き詰まってしまいます。それにしても、「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも」とはすごいことばだと思います。つぶやく民はエジプトで彼らが奴隷としてどんなにつらい目に遭っていたのかはどこかに行ってしまい、目の前の空腹に耐えられずに、大声で不満をぶつけているのです。主が彼らに賜わったマナでは飽きてしまったとでも言いたいのでしょうか。

 こんなことを書きながらも、自分にもこんな思いに駆られることがあるのだと気づかされます。満たされていても、あれがないこれが必要だと、欲望には限りがありません。たくさんのモノにあふれているのに、なお必要だとして、テレビにはコマーシャルが流れ、ネット広告が飛び込んで来ます。

 さて、モーセは「私には重すぎます」と、このような中で神に祈りました。「私にこのような仕打ちをなさるのなら、…殺してください」とまで言っています。この時にモーセがどれほど苦しみ、行き詰まっていたのかが伝わってきます。「自分にはもうできない」とさじを投げるようなときに、神に祈ることのできるさいわいを改めて覚えます。


雲が動いて

2016年01月21日 | 民数記

民数記 10章11−36節

 はじめに、きょうの「みことばの光」の内容についておわびと訂正をいたします。

 「雲がシナイにとどまって二年近くになろうとしていた」とありますが、これは「雲がシナイにとどまって一年近くになろうとしていた」というのが正しい内容です。出エジプトの第二年の第二の月の二十日、イスラエルは、十ヶ月と二十日の間滞在していたシナイの荒野を旅立ちました。

 聖書の記述を「みことばの光」で正確に表現できなかったことをおわびいたします。

 雲が動いて、彼らはいよいよシナイを出発して荒野に踏み出しました。そのために、主に教えられ、数々の準備をしていたことを実践する時がやってきました。私たちが日々聖書を読んで、神のみこころを教えられ、自分がなすべきことを知らされるのは、生活に活かすためなのだということを思わせます。

 ホバブにいっしょに行ってほしいと願ったのは、彼をしあわせにしたいという思いから出たことだったでしょうが、ホバブが「私たちにとって目なのです」とモーセが述べている理由もあったことでしょう。主は私たちの旅路に素晴らしい仲間を備えておられますが、頼るべきはやはり主なのだ、ということを改めて覚える出来事です。


神に覚えられる時

2016年01月20日 | 民数記

民数記 10章1-10節

 当地のきょうの天気予報を見ますと、最高気温0度、最低気温−9度となっていました。凍結防止でしょうか、歩道には塩らしき物が蒔いてありました。そんな中、きのうは用事があって街中へ。寒さの中を歩いたので、ちょっと温かいものを、ということで…。写真はそのお店自慢のケーキです。

 シナイから荒野の旅への、出発の準備が続きます。ここでは二本の銀のラッパを作るようにと神がお命じになっています。さらに神は、ラッパの鳴らし方でいろいろな命令を民に出すということを、モーセにお話しになりました。出発の時、人々を召集する時、リーダーを集める時、戦いの時、そして喜びの時にラッパが鳴ったのです。

 9節と10節にある、「あなたがたは神の前にに覚えられる」ということばを心に留めました。ラッパが吹き鳴らされ時にイスラエルの民は、ああ、神は私たちを覚えておられるのだと思い起こすのです。ですから、その時はまた、イスラエルの民が神を覚える時なのです。

 きょうの箇所を読んで、「主は、号令と、御使いのかしらと、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」というテサロニケ人への手紙第一4章16節のことばを思いました。その時が来るのを待ち望みながら、何をもって神を覚えるのだろうか、今の自分にとってラッパの音とは何なのかを考えるのです。

*間に塗られているベリーが美味しいザッハ—トルテ


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