みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の命令によって動き、とどまる

2016年01月19日 | 民数記

民数記 9章

 久しぶりに晴れましたが、キーンという寒さの一日でした。日中でも氷点下。でも、近くの川で泳ぐ鴨たちは元気そう。人間ならばたちまち凍え死んでしまうでしょうに…。寒さで縮こまることなく、たくさんの人が公園を歩いていました。

 9章には、過越のいけにえをささげよと神がお命じになったことと、イスラエルの民がいよいよシナイから出発する前の、旅の原則が記されています。特に、15節以降に記されている原則に目が留まります。イスラエルの民は、幕屋の上に雲がとどまっているうちはいつまでも留まっていなければならず、雲が動いたならば、雲とともに動かなければならないというのです。つまり彼らは、主の命令によって動き、主の命令によって留まったのです。

 19、20節を読んで、いろいろなことを考えました。 人にはいろいろな都合というものがあります。「ここから動け」と言われても、今のところから動けないという事情もありますし、「動くな」と言われても動かなくてはならないという事情もあるかもしれません。しかしここには、そのような事情によって左右されない行動原則があります。つまり、神が第一であり、神の命令こそ絶対に正しいという前提です。

 きょうの「みことばの光」には、「みことばと御霊が私たちを導く」という黙想への促しがありました。何が自分を動かしているのだろうか。自分の感じ方とかその場の雰囲気、空気がどう動くかが、いつの間にか影響を与えていないだろうか…などなど。

*天窓をキャンバスにして冬のかたち


主の奉仕をするため

2016年01月18日 | 民数記

民数記 8章

 きのうの礼拝には、この春か夏に日本に行く予定の宣教師ご家族が出席しておられました。小さなお子さん3人を伴って、日本に行ってくださるのです。とてもありがたく、感謝です。私たちの教会は、たくさんの方々に祈ってもらい、たくさんのものを贈ってもらいました。ありがたいことです。そして、これからはそればかりではなくて、宣教師などを送り出し、支える教会でありたいと願いました。

 きょうの箇所には、レビ人が奉仕に先立ってきよめられることが、そしてどのようにして身をきよめるのかの実際が記されています。強調されているのが、「レビ人はわたしのもの」と主がおっしゃったということ。細やかにレビ人のきよめの手順が記されています。なぜ彼らがきよめられなければならないのかというと、主の奉仕をするためだからです。

 11節に「これは彼らが主の奉仕をするためである」とあります。それは、きよめられることやきよくなることが目的なのではなくて、主のための奉仕をするためにきよめられるというのですね。

 主イエスの弟子たちが、主のそばにいて教えを聞き、様々なしるしを見たのは、それで彼らが満足しておしまい、ということではありません。やがて彼らには主の十字架と復活の意味がはっきりわかって、主イエスがキリストだと、ある者はいのちを賭して伝え続けました。神は自分にどのような奉仕のための備えをなさったのか、振り返ってみたいです。

 *日曜の朝の雪景色


神の前に歩む

2016年01月16日 | 民数記

民数記 7章42ー65節

 月曜日のインターナショナル祈祷会で会った方の家を午後に訪ねました。ドイツ語を教えているドイツ人の方で、本腰を入れてドイツ語を学ぼうとしている私たちのために、時間を取ってくれたのです。とても有意義なアドバイスをしてもらいました。それにしても、初めて会った者に声をかけてくれ、必要を聞いてそれに応えようと時間を割いてくれるとはすごいこと! ありがたく嬉しいことです。

 きょうの箇所では、六日目から九日目にかけて、ガド族、エフライム族、マナセ族、ベニヤミン族の族長がささげた祭壇奉献のためのささげ物のことが記されています。きのうも書きましたが、全く同じささげ物が12日間、各部族によってささげられるのです。

 各部族の族長は、判で押したように穀物のささげ物、全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、そして和解のいけにえをささげます。全焼のいけにえは、ささげ物のすべてを祭壇の上で焼き尽くすことから、ささげる者が自分のすべてを神のものとして捧げるということを表わしていました。

 他のささげ物やいけにえは、一部を祭壇で焼き残りは祭司やレビ人の糧となりました。自ら相続地を持つことのないレビ部族は、イスラエルの他の部族の神へのささげ物によって生活が支えられていました。全く同じ物を同じだけささげるというのは、ささげる側の勝手な都合に左右されないということも表わすのかもしれません。

 祭壇でささげられたこれらのいけにえは、やがてカルバリでキリストがご自分をいけにえとしておささげになったことへと繋がります。そして、キリストを信じて罪を贖われた者は、言い尽くせない神への感謝を、自分自身をささげること、福音の働きのために献金をすることによって、表わしたいです。

 *木曜日にERFでいただいたお昼。典型的なドイツの食べ物(ソーセージ、ポテト、ザウアークラウト)です。


ささげる喜び

2016年01月15日 | 民数記

民数記 7章24−41節

 きのうは月に一度の電話メッセージ録音日。今回は6回分のメッセージを用意しました。この放送はフランクフルトから北におよそ50キロの町にあるERFという福音放送局から流れます。ドイツ語も含めて26の言語で聖書からのメッセージが届けられています。

 ちなみに、日本語のメッセージは月曜日から土曜日まではPBA(太平洋放送協会)制作の「世の光」を日替わりで聞くことができ、私のものは日曜日にお聞きいただけます。ドイツ国内からは電話番号 06441 20816 26 で日本語メッセージが聞けますし、インターネットでは ERFのウェブページからinternationalのページに入り、さらに「Angebot nach Sprachen」(言語別メッセージ提供)をクリックしていただきますと、日本語の項目がありますから、そこからお入りください。「Andacht(MP3)」クリックでお聞きになれます。ブックマーク欄にリンクを設定しておきます。

 きょうの箇所では、三日目から五日目にかけてゼブルン族、ルベン族、シメオン族がささげた祭壇奉献のためのささげ物について記されています。それぞれのささげ物は全く同じものであり、同じ量や数です。このように、12日間にわたるささげ物が全く同じことばで繰り返されるのです。今なら、「第1日にはユダ族の…をささげた。二日目以降は、イッサカル族、…が全く同じものをささげた」とするようなことです。

 なぜ冗長とも思える繰り返しがあるのでしょうか。「以下同文…」と言われてガクッときたようなことがあります。最初だけを詳しく述べ、あとは部族名だけというのではないのです。それぞれがささげたことを強調しているのでしょうか。また、これが何かの機会に読み上げられるのだとしたら、それぞれの部族にとっては晴れがましいことだったのかもしれません。

 また、最初に穀物のささげ物について言われているのについては、それらはレビ部族のものとなるので、他の部族がレビ部族を支えるようにというのが神のみこころなのだということを確認していると説明する人もいます。

 神にささげる喜び、神の民として連なる喜びを、これらの繰り返しから想像することができます。


必要なものを必要なところに

2016年01月14日 | 民数記

民数記 7章1−23節

 きのうの祈祷会で、「民数記は読み進めるのが難しい」という話題になりました。また、日曜日の礼拝後に、「みことばの光」を用いて聖書を読んでいる方が、「ちょっと読み進めるのにくじけそうになっています」とおっしゃっていました。

 確かに、いろいろな段取りといいますか、手順が詳しく述べられていたり、同じようなことばが繰り返されていたりして、民数記は福音書のようにすんなりと読み進めるわけにはいきません。それは、人が神に近づくためには、そんなにスッキリとはいかないということを表しているようにも思えます。罪人が聖い神に近づき祈るのはそれほどのことなのです。

 そのように考えますと、主イエスの十字架がすべての悪から私たちをきよめてくださったのだということの大きさを改めて覚えます。

 ここには、まず、イスラエル各部族の族長が、ささげ物として、車と雄牛を持って来たことが記されます。これらは、幕屋の幕を運ぶゲルション族と、幕屋の土台や骨組みである木材を運ぶメラリ族に与えられました。ケハテ族に与えられないのは、聖なる器具や用具を自分たちの肩に乗せて運ぶからです。

 ある者には与えられ、ある者には与えられない…。不公平なのではなくて、それぞれの働き、また賜物には違いがあるということを考えることができます。ですから、自分に与えられていて他の人に与えられていないことで誇ったり、逆のケースのゆえに落ち込んだり恨んだりするというのはお門違いなのです。


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