ヨハネの手紙第一 1章
教会の修養会が金曜日から日曜日まで行われています。今回は、近隣の教会の方も参加され、いつもとはまた違った豊かさを覚える交わりを楽しんでいます。天候が今一つなのですが、土曜日には太陽が顔をのぞかせてくれるとよいと願っています。
ヨハネの手紙を書いたイエスの弟子の一人ヨハネは、ヨハネの福音書で自分の名を出さず、その代りに「イエスの愛された弟子」と自分を書いています。考えてみると、そのような書き方もかなり大胆だと思うのですが、ヨハネはそれほど、イエスのそばにいたのです。
この手紙のはじまりは、イエス・キリストの紹介から始まるのですが、それはヨハネならではの書き方です。私たちが聞いた、自分の目で見た、じっと見つめた、そして自分の手でさわったというのは、初めからあったお方、いのちと呼ばれる方、御父とともにある方、私たちに現れた方のこと、それはイエス・キリストなのだと彼は書きます。
彼はここでは、空想上のキリストを紹介しているのではありません。聞いて見て、じっと見つめて、そしてさわったと言います。それは、イエスはじつは肉体を持ってはいなかった、なぜなら神だから……という、間違った思想が教会に入り込んで混乱させていたことを前提とした書き方です。
この1章でヨハネは、初めからあった方、神が私たちがじっと見つめ、さわることができる肉体を持ってくださったこととをまず書いています。もう一つは、神は光であって神には闇が全くないとも書いています。
神は光であり私たちは闇だという考えも、当時の教会を混乱させていました。ヨハネはそうではないと言います。光である神との交わりを持つ者が闇の中に歩むはずはないのだとして、二元論的な生き方に真っ向から立ち向かいます。
だからこそ、罪を犯したならば悔い改めるのです。悔い改めた者を神はキリストにあって赦してくださる、この約束が確かなので、私たちは裏表なく歩むことができるのです。