みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

信じる者の患難

2017年08月26日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 16章16−33節

 子ども集会でおじゃましたお家の近くに美味しそうな赤い実をつけた木が…。そのお家の方に「食べられますか」と尋ねたら、「食べたけれどもそれほど美味しくはなかった」との答えでした。気になったので、帰りに一粒食べてみました。すっぱーーい! 眠気が一気に吹き飛ぶような味でした。

 イエスがお教えになっていることに、ここに来て弟子たちが反応を示しました。それは、13章33節、36節に続き、ここでもイエスが彼らのところから去って行くとおっしゃっていることが彼らには理解できないのです。「私たちには主の言われることがわからない」と彼らは言っています。イエスがここで、しばらくするとわたしを見なくなるがまたしばらくすると見る、嘆き悲しむが悲しみは喜びに変わる、苦しみがあるが喜びに変わるとおっしゃることばに目が留まります。

 聖書を読む私たちは、この後イエスがどのようになられるのか、そして弟子たちがどうなるのかを知ることができるのですが、弟子たちはそうではありません。自分たちの期待と違ったことをおっしゃるイエスのことばがわからないのです。その彼らが、29、30節でイエスを「あなたが神から来られたことを信じる」と言い表しているのですから、驚くような信仰の表明です。しかし、そのような立派な信仰を告白しても彼らは、イエスが逮捕され、十字架につけられる中で、イエスを捨ててしまうのです。だからといって、イエスは弟子たちをダメだとはおっしゃいません。

 時折、いやしばしば、自分の身に起こることの意味がわからずに、嘆き苦しみます。この辛さがいつまでも続くのではないかと恐れます。しかし、弟子たちに先の展望、希望を与えておられるイエスは、私たちにも同じようにしてくださるのだと信じます。なぜそう言えるのか……。主は世に勝ったお方だからです。


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