みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

像を拝まず

2017年04月12日 | ダニエル書

ダニエル書 3章1−15節

 2章での出来事と3章での出来事の時間的なつながりははっきり言えませんが、もしもこれが時間的な順序だったとしたら、独裁者であることゆえの権力を誇示したいという魅力、誘惑は相当なものだということです。

 ネブカデネザルはなぜ金の像を建てたのでしょうか。彼は金の像が神であるとは考えてはいません。金の像を建てるほどの富を持つ自分、像の奉献式にすべての高官たちを集めることのできる自分、そして、合図の音楽によってすべての者たちが像を拝むように命じることのできる自分に喜びを抱いたのでしょう。

 被支配者たちを宗教的に縛ることで、政治家は自分の権威を盤石にしたいと目論むのは、今の時代にも見られることです。

 この箇所で悲しむべきは、楽器、音楽が金の像を拝むための合図として使われているということです。音や音楽は神をたたえるためにあるのに、単なる合図として音楽が用いられるのはなんということかと思うのです。今の時期、当地は鳥の美しいさえずりが夜明けと共に聞こえます。まるでそれは、春を造られた神をほめたたえているかのようです。

 けれどもここでは、神ならぬものを拝ませる権力者の暴力のために音楽が使われるのです。

 そのような巧みな誘いかけを、けれども3人はいのちを賭して拒みました。せっかくバビロン集の事務をつかさどる要職へと登用されたのだから、一度ぐらいは、皆がやっているから、かたちだけでもなどという理屈を挙げることもできたのかもしれなかったのに、彼らは拝むことはありませんでした。襟を正される態度です。


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