エレミヤ書 31章23−40節
列車で3時間ほどかけて、城壁で囲まれたおとぎの国のような町に来ています。景色は木の葉が色づき秋なのですが、きのうも書きましたように気温は上がらず、真冬のようでした。久しぶりに夫婦以外の家族といっしょに、賑やかな一日を過ごしました。
心穏やかであるという状態は、それほど長続きするものではありません。人はちょっとしたことで恐れ、不安に駆られます。「ストレス」ということばはすっかり日本語として定着しましたが、何かしらのストレスを抱えている人が大多数だと思います。
エレミヤはどのようなことでストレスを感じていたのかを考えてみました。自分が南王国ユダの王や民に、何十年にもわたって伝えた神のことばは、自分たちの国、町を主がバビロンを用いて滅ぼされるから、罪を悔い改めて神に立ち帰るようにとのことでした。
人々が耳を傾けて、罪を悔い改めるのならば、預言者としての生きがいを感じることでしょうが、そうではありませんでした。それどころか、彼らは耳をふさぐばかりかエレミヤを捕らえ、殺そうとまで企てるのです。
そのようなエレミヤが、自分の眠りはここちよかったとここで言っています。それは、彼が人々に受け入れられて感謝されたことによるのではなく(そんなことはありませんでした…)、ユダが神によって回復するとのことばを聞いたからでした。
自分の眠りの心地よさはどこから来るのだろうかと考え、安眠できるのも神の恵みのみわざなのだということを覚えるのです。