レビ記 14章1−20節
きのう、近くの古墳公園の芝生の上でしばらくぶりにでんぐり返しをしました。すると、その格好を幼稚園卒園児のお父さんに見られてしまいました。ほんとうに久しぶりの再会です。立ち話でしたが、その方の近況と抱いておられる夢を聞かせてくれました。「もうあとは、ゆっくりと老後を…」というのもいいものですが、「これをして、あれもして…」というお話は、聞く側に元気を届けてくれました。
きょうの箇所には、ツァラアトに冒された人がきよめられる順序が細かく記されています。ツァラアトを宣告された時の悲嘆を思うと、きよめられるための一つ一つの順序を踏んでいく中でのこの人の思いが、どれだけ喜びと希望にあふれていることだろうかと想像してしまいます。宿営の外にいなければならなかったその人が、祭司の「きよい」との宣言によって再び家族や友といっしょに暮らすことができるのです。ツァラアトに冒された人に、「わたしの心だ。きよくなれ」と主イエスが宣言なさったという出来事を覚えました。⇒マルコの福音書1章40ー45節
罪人の罪を赦しきよめるための一つ一つの手順をすべてご自分の側で行ってくださった主イエスに、どのような感謝を表せるのか、黙想します。