みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いのちはわたしのもの、だから…

2012年09月07日 | エゼキエル書
エゼキエル書18章1-18節


 イスラエルの民は、自分たちの苦しみのわけが、先祖たちの行為にあると考えていました。「自分は悪くない、親が悪い」「国が悪い」「みんなやっている」などとして、責任転嫁をはかろうとしているだれかと似ていますね。
 けれども神は、「罪を犯した者はそのものが死ぬ」、「正しい者は、その正しい歩みによって生きる」として、あなたの罪はあなた自身が負うのだと反論しておられます。

 父の罪ゆえに子どもがいのちを奪われてはならないし、子どもの罪のゆえに父のいのちが奪われてはならないのです。なぜならいのちは神のもの、神からの賜物だからです。
 昨日は、今年6月までの半年間に警察が摘発した児童虐待が昨年よりも6割多い248件に上ったと報じられていました。このほか、「虐待の恐れがある」として児童相談所に通告した児童数は7000人以上、親から「生まれてこなければよかった」などと言われる心理的虐待はその半数以上を占めたそうなのです。

 人はだれかに「死ね」とか「いないほうがよかった」などと言う権利を全く持ち合わせてはいないのです。それは神のご主権への侵害です。なぜなら、「いのちは神のもの」だからです。

 「みことばの光」では、人は自分の罪のために死ななければならないものだが、全く罪を犯したことのないイエスが、十字架に死なれたことの意味を黙想するようにとあります。イエスの十字架と私がどのように結びついているのかを改めて深く思い、考えたことを書き留めます。






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