goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

役に立つ人に

2012年02月06日 | テモテへの手紙第二
テモテへの第二の手紙 4章9-22節


 土日と甲府の教会に伺いました。
 土曜日の午後に日曜学校の教師の研修会①、日曜学校の礼拝のお話、保護者の方とのひととき、礼拝での説教、そして、午後の研修会②。「子どもたちに福音を~教会に子どもがいなくなる前に」」という主題をいただき、二日間教会での子どもたちのことをいろいろな角度からいっしょに考えました。
 しばらくぶりでお会いした人もあって、懐かしさとともに、変わらずに教会にあって主に、そして子どもたちのために奉仕しておられるお姿に励まされました。

 手紙の終わりには、「みことばの光」にあるようにパウロやテモテとかかわりのある人々の名前が出ています。私たちにもなじみの名前もありますね。私はマルコを思いました。(もちろん一度も彼に会ってはいませんけれども!)
 
 パウロとバルナバとによる第一次伝道旅行に助手として同行したマルコは、旅の途中でエルサレムに戻ってしまいます。次の伝道旅行にマルコを同行させるかをめぐって、パウロとバルナバが衝突。結局バルナバがマルコを引き受けることになったという出来事がありました。
 
 その時パウロはマルコについて次のように考えていました。「…仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよい。」
 けれども今は違います。「彼は私の務めのために役に立つからです」と書いています。マルコはいらないとかつては考えていたパウロが、今はテモテといっしょに来てほしいと願っているのです。
 「みことばの光」には、「マルコが変えられ、パウロも変えられた証しである」とあり、「主にある成長の実例がここにある」と書かれています。

 二人に、主にある者のおおいなる可能性を覚えました。







確かなものにとどまる

2012年02月04日 | テモテへの手紙第二
テモテへの手紙第二 3章


 暦では今日が立春。春到来! と喜びたいところですがそうはいきません。
 例年ならば、家の近くの大きな梅の木には今頃はちらほらと白い花が見られるのですが、今年は全く…です。待ち遠しいですね。

 今朝の新聞に尾木直樹さんの記事が載っていました。教育評論家の尾木さんが、最近は「尾木ママ」として小さな子どもを持つお母さんたちから絶大な信頼を寄せられていると聞いていました。多い日には、ブログへのアクセスが40万件を越えるとのこと。驚きですね。
 記事の趣旨は「孤立している子育てママ」でした。尾木さんは地域が崩壊して子育ての知恵がこの20年ほどで影も形もなくなったと嘆きます。「こうすればいいの」とか「だいじょうぶ」という声かけがされないために、端で見たら何でもないようなことに、ママたちは深刻に悩むのだというのです。

 こんなにもたくさんの情報が行き交っているのに孤立するとは皮肉なことです。

 とどまれるものを持っていることの強さや安心を、きょうの箇所を読んで改めて思いました。
 世の中はめまぐるしいスピードで変わります。ちょっと前に頼りにしていたことが今は役に立たないとか、Aさんはこうだと言っているけれども、Bさんは正反対のことを言う。どちらを頼りにしたらよいのかとの悩みはますます深くなるように思えるのです。

 パウロはテモテに、「しかしあなたは」「けれどもあなたは」と勧めます。周りがどうでも、あなたにはとどまれるものがある、確かなものがある、それが聖書だというのです。
 
 今日、明日と甲府の教会を訪ねます。




間に合うものとなる

2012年02月03日 | テモテへの手紙第二
テモテへの手紙第二 2章14ー26節


 母が食堂をしていたことから、我が家にはいろいろな器があります。
 残念なことに、その多くは両親が家を離れる際に処分してしまいましたが、一部は譲り受けて使っています。
 なかには、ずっと使われていないのでよごれた器もあります。

 「みことばの光」は、きょうの聖書箇所を「主のしもべがしてはいけないこと」と「主のしもべが求めていくこと」と、わかりやすく解説しています。

 私は「器」ということばに心惹かれました。
 パウロは、大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあると書いています。
 確かに、売り買いをすれば相当の値段がつくような宝物のような器もあれば、今なら100円ショップで売っている「実用本位」、壊れても惜しくないような器もあります。
 そんなことを考えて食器片づけをしていたら、何と! ご飯茶わんを割ってしまいました。
 
 器そのものを愛でて収集し観賞するという世界もありますが、本来器とは何かを収め、入れておくために作られているものです。ですから、その材質が高価であろうと安価であろうと、ふさわしいのはきれいになって何かを入れることなのですね。そしてそれは、器を満足させるのではなくて、その器を作り、また所有している主人を満足させるためなのだという当たり前のことに気づきました。

 金でできているとか木で作られているとかいって、器同士が誇ったり落ち込んだりするのは論外。
 どのような材質のものでも、尊いお方のお役の立つのならばすべて有益な器なのです。
 「主人にとって有益なもの、あらゆるよいわざに間に合うものとなる」ということばを、心に留めます。
 





ともに…

2012年02月02日 | テモテへの手紙第二
テモテへの手紙第二 2章1-13節


 障がいのある人々を支援し、ともに歩もうとする市内にある施設の集まりが昨日もたれました。
 三人が月に一度集まるのですが、それぞれ個性的でおもしろい組み合わせです。

 一人は脳性麻痺の障がい者。「自分たちのことは自分たちで決めます」と、障がいのある人々のための多方面の働きを、障がいのある人たちとともに展開しています。
 もうひとりの方には、重い知的障がいを持つお子さんがおられます。他のお母さんがたともに子どもたちが安心して通える施設をと奔走。創設して運営しています。
 そして私は牧師。携わった保育の場に障がいのある子どもたちが次々に加えられるということから、気がついてみたら障がいのある方の支援施設の運営をしていました。

 「ともに生きる」「ともに歩む」というのは、キャッチコピーとしては響きがよいと思いますが、現実にはいろいろな難しさがあります。だからこそ、月一度の機会は大切だと思っています。

 パウロはテモテに、「私と苦しみをともにしてください」と繰り返し勧めます。
 さらにこの箇所では、「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」と書いています。
 苦しみの中にいたであろうテモテに、福音のためのパウロの、そして福音であられる主イエスの苦しみを思い起こして、「苦しみをともに」と励ますのです。

 主イエスは弟子たちに「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束なさいました。そうなんだ! と信仰者は折りに触れ励まされるお約束です。
 けれども、私のような者と、「いつも、ともに」いてくださるイエスさまの忍耐はさぞ大変なものだろうと、想像してしまうのです。
 ありがたいことです。
 

 


思い起こしては感謝

2012年02月01日 | テモテへの手紙第二
テモテへの手紙第二 1章


 2月を迎えました。
 たった一日なのに、月末と月初めでは何となく気持ちが違うのですが…。なんと言いますか、月末は重い荷物を背負った感じですなのが、一夜明けて新しい月を迎えると軽くなったような気がします。
 お気楽過ぎるでしょうか?

 「みことばの光」では、きょうからテモテの手紙第二を読みます。パウロが「愛する子テモテ」に書き送った手紙です。「…読む前に」にもあるように、このときのテモテは、エペソの教会の指導者として苦労し意気消沈していたようです。
 課題のある人を励まし支えるのは、簡単なことではありません。

 パウロは感謝からはじめます。「思い起こしては感謝」を繰り返すのです。
 人に何かを言いたいときには「まずはほめよ」とよく言われますが、パウロの場合は「まずは感謝」です。
 とりなすときにテモテを思い起こしては感謝、もう一度テモテに会いたいと願っては感謝、テモテの純粋な信仰を思い起こしては神に感謝しています。
 
 そして、パウロがテモテに勧めているのは、「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」ということです。
 興味深いと思ったのは、パウロはテモテにないものをがんばってつかめ、達成せよ! ではなくて、「あなたのうちに与えられた神の賜物」を燃え立たせるように勧めていることです。

 神は私に、あなたにどのような賜物をすでに与えておられるのかを見つけ、認め合うこと。これが人を励ますことの基本なのだということに気づかされました。

 
 



2011-2024 © Hiroshi Yabuki