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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

望みを抱いて…

2021年08月21日 | 使徒の働き

使徒の働き 26章1−18節

 「自分のことを話してよろしい」とのアグリッパのことばを受けて、パウロは自分の身に何が起こったのかを話し始めました。

 使徒の働きにはパウロの回心について、三度の記述があります。一度目は9章にあり、ダマスコに向かう途中での出来事が書かれています。二度目は21章、エルサレムの民衆の前でパウロが自分の回心(キリストを信じて罪が赦されること)について語ったことが書いてあります。そして三度目がこの箇所。

 6、7節の「望みを抱いている」ということばに目が留まります。パウロは「望みを抱いている」ためにアグリッパの前に自分が立っており、「望みを抱いている」ためにユダヤ人から訴えられたとここで語ります。望みとは何でしょうか。8節の「神が死者をよみがえらせるということ」、これが望みです。

 父祖たちがずっと望みながら見ることのなかったよみがえりについて、イエスの弟子たちが「イエスは復活し、生きている」と話しているのを、許しがたいことだと、パウロは考えました。いつかはその日が来る、しかし、そんなに簡単に来るものか…と思っていたのかもしれません。

 あのナザレ人の一派は、自分たちの首領(イエス)が死からよみがえったと触れ回っている…。そんなインチキがまかり通るはずがないというのが、パウロがイエスを信じる人々を迫害した力になっていたのです。

 ところが、そのイエスが直接、パウロに会って話をされたのです。この瞬間に、敵であったイエスがパウロの主(しゅ)になりました。復活のイエスに会った、いや、イエスが会ってくださったことで、彼は人生の向きを正反対に変えました。


死んだが生きている

2021年08月20日 | 使徒の働き

使徒の働き 25章13−27節

 訪れている町には、いくつかの徒歩の周遊コースが紹介されています。木曜日はその内の一つのコースをおよそ17キロ歩きました。ぶどう畑(時々「ワイン畑」と呼んでしまいます)を通り抜け、隣町を訪ね、森の中から再び「ぶどう畑の山」へ。総歩数は23,000歩! 美しいトンボも迎えてくれました。

 カイサリアに留め置かれているパウロが、総督フェストゥスの一言でローマに行くことになったというのは、前日の箇所で読みました。フェストゥスは、表敬訪問のアグリッパ王(ヘロデ・アグリッパⅡ世)にパウロのことを持ち出します。きょうの「みことばの光」では、アグリッパについて詳しく説明をしています。彼はヘロデ大王の曾孫(ひまご)。ヘロデ一族は、新約聖書のさまざまな出来事とかかわりがあります。彼の父親は使徒ヤコブを殺害し、ペテロも捕えて殺そうとしました。

 アグリッパⅡ世がなぜ、パウロの話を聞いて見たいと思ったのかについて、ルカは記しません。フェストゥスがパウロのことを持ち出したことに無視できないと思ったのか、あるいはパウロたちの一派のことは世間でも大きな話題となっていたので、この機会に…と考えたのかもしれません。

 人はさまざまな思惑で歩みます。そして、福音はそのような中で語られます。パウロは「イエスは死んだが生きている」と語ってきたのです。それは聞いた人を驚かせ、時には一笑に付されるようなことです。しかし、それこそが福音です。

 イエスは死んだ、そして生きていると語っているか、そのように信じて生きているかと、問われます。


ホーム、アウェイ

2021年08月19日 | 使徒の働き

使徒の働き 25章1−12節

 住まいから車で2時間弱の小さな町で短い夏休みを取っています。そこは掘に囲まれた中世の町。30分も歩けば一周できてしまいます。

 パウロがカイサリアに留め置かれて二年が経ちました。この間ローマ総督はフェリクスからフェストゥスへと交替。二人とも下心のある人物ですが、どちらかというとフェストゥスは、パウロがユダヤ人に狙われているのかの理由について詳しくありません。しかしここを読むと、パウロをローマに送るためには、かえってそれが良かったのではないかと、想像してしまいます。

 それにしても、「パウロ憎し」とする人々の力にはすさまじいものがあります。彼らは二年経ったからといって怒りを収めたのではなく、持ち続けていたのです。総督が替わったので好機だとばかり、フェストゥスがエルサレムに来た折に、パウロをエルサレムに呼び寄せてほしいと訴えます。しかし、総督は用事があるならカイサリアに来いと、彼らの訴えを退けます。そのために彼らは、カイサリアに来ることになります。

 そして、フェストゥスの一言がパウロのローマ行きを決定づけてしまうのです。パウロに配慮したのではなく、ユダヤ人の機嫌を取ろうとして発した一言が決め手となりました。不思議なことですね。

 カイサリアに…、エルサレムに…というやりとりを読んで、「ホーム」と「アウェイ」ということばを思いました。野球やサッカーなどのスポーツでこのようなことばを用います。パウロにとっては、どちらもアウェイなのかもしれませんが、ともに主イエスがおられるのですから、アウェイであっても、ホームにいるような力強い支えを受けていられる、と想像しました。

 ある意味で、アウェイの地で生活している私たちですが、ここでも最高の応援者がともにいてくださいます。


2年間の足止め

2021年08月18日 | 使徒の働き

使徒の働き 24章10−27節

 ウォーキングコース沿いの栗の木が実をたわわにつけています。しばらくするといがが割れて、実が顔をのぞかせることでしょう。とても小さくて皮をむくのが大変なのですが、素朴な味がします。

 この箇所の初めでは、弁護士テルティロの訴えに、パウロが弁明しています。何の隠し立ても、ごまかすこともしないで、彼は一つ一つの訴えに誠実に答えます。

 「騒ぎを起こしている」との訴えに対しては、自分がエルサレムに上ったのは礼拝のためであり、上って12日にもなっていないので騒ぎを起こす余裕もないと言います。

 「ナザレ人という一派の首謀者」との訴えに対しては、そうであることを否定しません。それとともに、自分たちこそ、旧約聖書の教えに従って歩んでいると語ります。16節は、イエスを主と信じるパウロの姿勢を述べたもので、すべてのキリスト者のあるべき姿を表しています。

 「宮を汚した」と言う訴えに対しては、自分は清めを済ませて宮に入ったのであり、決して汚してはいないと反論し、祭司長たちの訴えには何の根拠もないと言っています。

 総督フェリクスは裁判を延期します。パウロが無罪であることを知りながら、総督という立場上ユダヤ人の機嫌も取る必要があるからです。結局、パウロはフェリクスの思惑ゆえに、二年もカイサリアで足止めを食うのです。この間の彼を支えたのは何か、「あなたはローマでもわたしのことを証ししなければならない」とのイエスのことばでした。

 思いのとおりに物事が進まないとき、何が人を支えるのでしょうか。


ことば巧みな訴え

2021年08月17日 | 使徒の働き

使徒の働き 24章1−9節

 月曜日、中心街の教会でのオルガンコンサートに行きました。まだ人数制限があり、着席するのも決められた場所に限られています。けれども、着席するとマスクを外しても良いとのことでした。30分はあっという間です。

 パウロがカイサリアに護送されたとの知らせを聞いたエルサレムのお偉方たちは、弁護士を伴ってカイサリアに出向きました。パウロを告訴するためです。弁護士テルティロは、さすがに弁舌巧みで、総督の機嫌を取ることも忘れてはいません。そして、パウロを「疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者」だと言います。

 福音を宣べ伝えるパウロをこのように言うのは、キリストを信じる側からするとひどい言い草だということになりますが、逆の立場から見れば、そのように映ります。福音を伝え、福音を証しする者が周囲から好意的に迎えられ、受け入れられるということはないのだと、改めて考えさせてくれます。もちろん、キリスト者がことさらに周りと違うことを強調して、信仰を持たない人を心で蔑むようなことをするのは論外ですが…。

 もう一つ、弁護士はイエスをメシアと信じる人々を「ナザレ人の一派」だと呼びます。「ナザレ」ということばから、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったナタナエルのことばを思います。彼はしかし、イエスに直接会って、いやイエスが直接会ってくださって、イエスの弟子とされます。興味ある方は、ヨハネ1章43−51節をお読みください。

 ことばを巧みに操るこの弁護士の訴えが、総督フェリクスの心にどのように響いたのかは、明日分かります。


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