goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神が拒まれる時

2024年09月02日 | 詩篇

詩篇 60篇

 月の第一日曜日は日本語とドイツ語の二か国語礼拝。司会者も、そして宣教もドイツ語が入ります。ドイツから出た讃美歌も含めるように選んでいるのですが、次回からは、何節めかをドイツ語で歌うことを考えてみたいと思っています。

 60篇には長い表題があります。特に、本篇の背景について詳しく書かれています。それによると、王ダビデが周辺諸国と戦った頃を背景に歌われたものだということが分かります。

 この詩篇の始まりと終わり近くに「拒む」ということばが置かれています。それは、神が私たちを拒まれたというように用いられています。戦いを背景にして神が拒まれるということですので、この時ダビデを王とするイスラエルは敗北を喫していたのです。

 実際には、アラム・ナハライム(今のシリア)と戦ってダビデたちは敗北を味わっていたのです。それをダビデは、敵が強いとか自分たちが弱いからというように見てはいません。神の助けがなかったから、神が自分たちを拒まれたからとしているのです。2―3節からは、むしろ神が自分たちを揺るがして敗北に追い込んでいることさえ考えます。

 神が自分たちの側におられると信じる人々は、敗北や失敗をしたときには、自分たちの神への態度、神の前の自分のありかたがどうなのかということに思いが向かいます。

 大切なのは勝った負けたということではなくて、神の前に自分はどうなのかということ。このことに気づくのは、敗北が得る大切な教訓なのではないでしょうか。

 11−12節に目が留まります。ダビデは「人による救いはむなしい」と言い、神にあって 私たちは力ある働きをします」とも言います。そのとおりなのです。


「滅ぼすな」という調べ

2024年08月31日 | 詩篇

詩篇 58篇

 8月最後の日が土曜日。私たちのために祈り支えてくださる日本の教会では、明日から新しい会堂での礼拝が持たれます。送られてきた写真を見ると夢のよう。パイプオルガンも新しい会堂での礼拝に間に合いました。子どもたち(私たちにとっては孫たち)も礼拝を心待ちにしています。私たちも…。

 詩篇58篇のはじめの部分(表題)に二つの不思議なことばが並びます。そのうちの一つは「『滅ぼすな』の調べで」。57篇、58篇、59篇そして75篇のはじめにも置かれています。このような調べがあり、それに合わせてこの詩が歌われたのでしょう。

 なぜそれがが「滅ぼすな」というタイトルなのでしょうか。諸説ありますが、ダビデの人生とのつながりで「滅ぼすな」を思わせる出来事は何でしょう。逃亡中のダビデがハキラの丘という場所で、サウル王を殺害するべきだと提案する勇士の一人アビシャイに、ダビデが「殺してはならない」とたしなめたことがありました。これと関係がある調べだという説があるとのことです。

 さて本篇では、正しい人と悪しき者とが並んでいます。ここで悪しき者は人々をさばく立場にいます。しかしダビデは問うのです。悪しき者にはできない、と。さらにダビデは悪しき者の歯を、牙を折ってくださいと神に強く願います。

 ここには悪しき者の支配に虐げられている「正しい人」の苦境が窺えます。ダビデがその人です。彼はこの世にあっては正しい人が顧みられず、悪しき者が大手を振っているという現実を見ながらも、神は正しい人にふさわしい報いをくださると信じるのです。

 「滅ぼすな」には、悪しき者のさばきを神にゆだねるという意味もあるのかもしれないと、考えました。


みことばをほめたたえます

2024年07月27日 | 詩篇

詩篇 56篇

 大きな集まりをしている会場には畑があり、おいしそうなズッキーニなどが収穫を待っていました。食卓の野菜は、ここで収穫されるものとのことでした。

 本篇も、その表題からサムエル記第一に記されている出来事が背景になっていることがわかります。

 サムエル記第一21章10−15節です。サウルから逃れてダビデはペリシテ人の地ガテの王アキシュのところに行きました。すると家来たちが「サウルが千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたあのダビデではないかと言ったので、ガテの王を恐れ、自分がおかしくなったかのようにふるまい、……ひげによだれを垂らしたりしたと、あります。

 この詩篇では「神にあって(主にあって) 私はみことばをほめたたえます」ということばが繰り返し用いられています。踏みつけられ虐げられる中で恐れるダビデ。しかしそのような時でも、いや、そのような時こそ彼は神に信頼するのです。

 神に信頼するとは、具体的には神が自分に与えられたみことば、約束のことばを信頼するのです。神のことばには力があることを彼はどんなときも疑いません。

 さらにダビデは、神は自分のさすらいを記録し、自分の涙をあなたの皮袋に蓄える、つまりあなたが書き留めくださっていると言います。

 きょうの私の一日の歩みを、神はどのように記してくださっているのだろうかと考えてみました。そしてそれは自分が自分の一日を記す内容と同じなのか、それとも違う内容なのでしょうか。


私の逃れ場

2024年07月26日 | 詩篇

詩篇 55篇

 昨日から、年に一度の「ヨーロッパキリスト者の集い」が始まりました。今年のスモールグループのメンバー写真です。いつもは花や景色の写真なのですが、今日は皆さんの許しをいただいたので、集合写真を掲載いたします。初めてのことです。

 詩篇55篇には思い出があります。神学校の時、夏休みにある教会の礼拝で説教をすることになり本篇から話させていただいたことです。ダビデが「悲嘆に暮れ 泣き叫んで」いたという状況について思うのは、サウルに追われていた時ではなくて、わが子アブサロムの謀反によってダビデがエルサレムから逃げてオリーブ山を登る場面です。

 サムエル記第二15章30節に、「彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った」とあります。この時ダビデの敵となったのはわが子であり、頼りにしていた側近でした。

 そのような背景をうかがわせるのが12−14節のことばです。彼のいのちを狙っているのはかつてはともに交わり、ともに礼拝していた者たちだったのです。ダビデが大きく嘆き悲しむのは、このような理由からでもありました。

 本篇6−7節に「ああ 私に鳩のように翼があったなら。 飛び去って 休むことができたなら…… 私の逃れ場に急ぎたい」とあります。もしも、アブサロムによる謀反と本篇とが関わりがあるのでしたら、ダビデはエルサレムからできるだけ遠くに逃げなければならないと思っていたはずです。しかし、本篇を読み進めていきますと、「私の逃れ場」とは敵からできるだけ遠くにあるのではなくて、じつは「そこ」なのです。

 自分のいのちを狙うものを神は必ずさばかれること、だからこそ自分は「あなたに拠り頼みます」と信頼しています。そここそ、私たちの「逃れ場」なのです。


神よ 私をお救いください

2024年07月25日 | 詩篇

詩篇 54篇

 7年間ほど愛用していたデバイスが、充電ができないために「眠って」しまいました。ちょうど良いタイミングだと思いました。ただ、電子ブックをどのように読むかは課題として残りますが……。しばらくの間は買わずにすごそうと思います。

 詩篇54篇は、昨日まで読んできたサムエル記第一とつながりがあることが、表題からわかります。本篇の背景は、サムエル記第一23章19節以降に記されています。いのちを狙うサウルの手から身を守るために逃げるダビデ。しかし、相手は主君サウル。自分たちの居場所を密告する者もいます。

 そのような境遇に自分が置かれたら…と考えつつ本篇を読み進めていきますと、追われる立場のダビデには、じつに強い味方がおられることが分かります。自分の力ではとても逃げ切ることができないところまで追い込まれてもなお、ダビデには「神よ あなたの御名によって 私をお救いください」と神に祈る道が残されているのです。

 「神よ 私をお救いください」から始まる本篇は、その終わりには「神がすべての苦難から私を救い出し 私の目が敵を平然と眺めるようになったからです」で終わります。この最後のことばを心に留めました。

 サムエル記第一23章には、映像的な描写があります。それは「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした」という26節のことばです。ここでのダビデは、追い迫って来るサウルに捕らえられる直前でした。しかし、ペリシテ人が攻め込んで来たとの知らせにダビデは辛うじて助かるのです。

 そんな緊迫した状況と本篇の最後のことばを重ね合わせます。ダビデはそのような中にあっても、「敵を平然と眺めるようになった」のです。重い病にかかっていたとしても、どうすることもできないほど行き詰まっていたとしても、「神よ 私をお救いください」との一言は、そのような中にあっても「敵を平然と眺めるように」神がしてくださるという、みわざヘの入り口です。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki