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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

沈黙はあなたへの賛美

2024年11月02日 | 詩篇

詩篇 65篇

 久しぶりに賑やかな都会を歩きました。変わらずに同じ場所に書店があり、デパートがあると懐かしさをおぼえますが、大きな変化に戸惑う所もありました。

 本篇は「神よ 御前には静けさがあり、シオンには賛美があります」で始まります。ある英訳の聖書はここを「沈黙はあなたへの賛美、シオンに住まう神よ、そして服従でもあります」と訳します。かなり訳者の解釈が込められているとは思いますが、神の御前での「静けさ」「沈黙」とはどのようなことなのだろうかと考えるきっかけになると思います。

 ダビデが沈黙について深く考えることに至るのは、主が自分の数々の咎を、神への背きを赦してくださるからです。

 ダビデも含めて、だれ一人神の前に胸を張って、「私はあなたのみこころにかなう義人です」と言うことはできません。それは本当の意味で私たちの心を騒がせる事実なのですが、それに気づくことはまれです。

 人が、静けさや沈黙よりも賑やかさを求めるのは、御前に立たないでいようという思いに基づくのではないだろうかと、ここから考えました。ここでの沈黙、静けさは赦された者に神が与えられた贈り物のように読みました。

 その静けさを持つことができる者の幸いは4節で高らかに歌われています。そして、5節以降に目につくのは「あなたは…」ということば。神のみわざの豊かさや細やかさを、ダビデは喜びとともに歌い上げています。

 この週末に、「あなたは…」と、神が自分になさっておられることを静けさの中で考え、主への賛美、感謝として何をことばで届けましょうか。


ことばは武器に…

2024年11月01日 | 詩篇

詩篇 64篇

 昨日は孫を幼稚園に迎えに行きました。先生や保護者から「戻っておられるのですね」と挨拶されたのでびっくり。どうやら、孫がみんなに「ビッグニュース」を知らせたようなのです。何となく照れくさいような、嬉しいような…。

 ダビデはこの時、敵に脅かされていました。彼らの武器は舌です。3節に「苦いことばの矢を放っています」とありますので、巧妙に仕組まれたことばの罠でダビデをおとしめようとしています。5節の「彼らは悪事に凝っています」も心に留まります。ことばで悪をたくらみ、ダビデをやっつけることに凝っているのです。厄介な相手です。

 4節に「全き人」とあります。さらに10節には「正しい人」、「心の直ぐな人」とあります。これらのことばを用いて、ダビデは自分を完全だと自慢しているのではありません。これらのことばは、神と間にあるべき交わり、繋(つな)がりがあるということなのです。

 さて、敵の企てはうまく行った、ように見えました。

 ところが、神はダビデとの契約のゆえに、敵の手からダビデを守られるのです。その方法は、矢を射かけること。それは、3節と4節にある敵がダビデを攻撃する手法と同じでした。

 ダビデの敵は、「自らの舌につまず」いたのです。ことば巧みな人は、そのことばによって自滅することもあるというのは、このようなことなのかとあれこれ考えました。

 ことばで神の前に罪を犯すことがありませんように。


そこも聖所

2024年10月31日 | 詩篇

詩篇 63篇

 本日は「宗教改革記念日」です。1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95ヶ条の提題」を発表し、宗教改革が始まったことを記念して制定されました。ルターが作曲し、J.S.バッハが編曲したコラール「神はわがやぐら」は讃美歌にも入っており、よく知られています。ドイツでは州によって休日のところも平日のところもあります。

 63篇は、表題に「ダビデがユダの荒野にいたときに」とあります。「ユダの荒野」は、彼がサウル王から逃れ回った所です。彼は「あなたは私の神」と呼びかけます。主は私たちの(われらの)神でありますが、ダビデにとっては「私の神」でもあるのです。こう呼びかけることのできる近さがダビデと神との間にあったことが伝わってきます。

 荒野は水のない衰え果てた乾いた地です。ダビデは荒野で、自分のたましいが「あなたに渇き」と歌います。詩篇42篇1節の「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように   神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます」を思い起こさせることばです。

 2節の「聖所」とはどこにあるのだろうかと、考えました。ダビデは荒野の中、サウルがいのちを狙って迫ってくる中で、そこを神の臨在の場、「聖所」だとしているのです。どこか特別なところに行かなければ、神に会うことはできないとは考えず、彼は、敵が追い迫るここを神の臨在のところとしています。

 そこも「聖所」なのです。 


多勢に無勢ではない

2024年10月30日 | 詩篇

詩篇 62篇

 帰国して最初にしたのは、充電できないタブレットを修理に出すこと。新宿駅前の大画面のビルの中にそこはありました。充電口の故障かと思ったら、充電はできるとのこと。お店の人の見立てではバッテリーの劣化の疑いがあるそうです。

 62篇は個人的に愛唱している詩篇の一つです。8節の「民よ どんな時にも神に信頼せよ」ということばは、これまで何度読み、自分に問いかけてきたことでしょうか。

 この詩篇は「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む」で始まります。「私は…」ではなく「私のたましいは…」とあることについて、考えます。自分の深いところで神を待ち望む(5節では「神を待ち望め」)と祈るダビデは、とても大きな危機の中に投げ込まれていたと想像できます。

 3節に「おまえたちは いつまで一人の人を襲うのか」とあり、「こぞって打ち殺そうとしている」とあります。しかも彼らは、「敵らしく」狙っているのではないことが、厄介なのです。「偽りを好み、口では祝福し 心では呪う」のです。

 そのような「敵」に対して、ダビデは始めから立ち向かおうとはしません。まず「黙って ただ神を待ち望む」のです。「ただ」ということばも心に響きます。危急のときに、あれもこれも…とするのではなくて、神を待ち望むことだけをするのです。

 3節を読んで「多勢に無勢」ということばを連想しましたが、いいや、「多勢に無勢ではない」のです。神こそ、私の救い、私の岩、やぐら、避け所だから…。

*ヴィッテンベルグ城教会


及びがたいほどの高い岩の上に…

2024年10月29日 | 詩篇

詩篇 61篇

 きょうから一週間少し日本にいます。空港のセキュリティチェックで、いつものようにコンピュータをリュックサックから出そうとしたら、「出さなくてもいいよ! この器械は最新鋭だから…」とニコニコ笑顔で言われました。12時間30分のフライトを控えて、これを書いています。

 心が衰えているダビデ。彼はこの時の自分を「地の果てから」と表現しています。それは自分が全く見捨てられてしまったような、孤独と絶望の所です。しかし、そこからでも彼は祈ることができるのです。

 ダビデの祈りは大胆です。彼は「及びがたいほど高い岩の上に」自分を導いてくださるよう祈っています。ダビデと主との関係は彼がどこにいてもつながっています。そのつながりは、大胆に自分の願いを伝えることができるというものです。

 「及びがたいほど高い岩の上」とは、高い所に住まわれる主の所に、主がおられる所にということです。4節で彼は、「あなたの幕屋にいつまでも住み 御翼の陰に身を避けます」と祈ります。

 私が住む所、これを読んでいるあなたが住む所、それはさまざまです。しかし、キリストゆえに私たちは、ダビデと同じ確かな希望を持っているのだということに気づかされます。

 さらにダビデの祈りは広がりを見せます。王のために祈るのです。今日の「みことばの光」が書くように、ここでの「王」とは彼の子であり、王位継承者のソロモンのことでしょう。

 自分のためにではなくて、誰かのために神に祈ることは信仰者の特権であり、務めでもあります。それは、神が自分を「及びがたいほどの高い岩の上に」置いてくださるという確信があるから、力強く誰かのために祈れるのだと思います。

 


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