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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

行き違いを乗り越える

2017年06月20日 | 雅歌

雅歌 5章

 晴れて結婚し二人の生活が始まりましたが、ある日互いの間に行き違いが生じてしまう…、これが本章の始めに描かれている情景です。

 妻は食事を整えて夫の帰りを待っているが、夫は友とのつき合いで帰宅が遅くなってしまいます。妻は夫のことが気がかりになりながらも床に入って休んでしまいました。そんなところに夫が帰って来ます。しかし、妻は、夫への怒りをどこかに抱きながら戸を開けるかを躊躇して、それでも戸開けてみると夫はいないのです。

 このようなことは、今でもよく起こることのように思います。そんなこと、あるあるとうなずかれるかもしれません。夫婦であるがゆえに、行き違いが大事(おおごと)になるということもあります。

 二人は、そのような中で互いの結びつきを失うことなく、これを乗り越えて行く様子が後半に描かれています。「みことばの光」は、「彼女にとって愛する方の輝きは失せていない」と書いています。9節は「エルサレムの娘たち」が妻に問いかけることばです。それが、夫を自分にとってなくてならない存在なのだということに改めて気づかせるきっかけになったのではないか、とも考えられます。

 二人の間に問題が生じた時に、自分の言い分を感情を先に立てていまうと、抜差しならないところにまでいってしまうというのは、多くの人が経験していること。そのような中で、「あなたの愛する方は、…何がすぐれているのですか」と問いかけに答えることが、難局を乗り越える鍵のことばのようです。


何と美しいことよ

2017年06月19日 | 雅歌

雅歌 4章

 花婿が花嫁の美しさをありったけのことばでたたえているのが本章です。「何と美しいことよ」の繰り返しからはじまる花婿の賛辞は、目、髪の毛、歯、口、くちびる、頬、首、乳房へと移っていきます。しかも、きれいだ、美しいという決まり文句を宣べるのではなくて、様々なものに譬えて伝えています。どれほどの知恵を用いたのだろうかと驚かされます。

 「あなたの髪は、ギルアデの山から下りて来るやぎの群れのよう」とは、花嫁の髪の毛を黒毛やぎの一群が山を下りてくる様子に譬えて、黒髪の流れるような美しさをたたえているのです。「洗い場から上って来て毛を刈られる雌羊の群れのよう」とは、洗われた羊の毛の白さと花嫁の歯の白さとを重ねているのです。

 けれども、花婿は花嫁の外見に気を取られてばかりいるのではありません。「あなたは何の汚れもない」(7節)、「あなたの愛は、何と美しいことよ」(10節)と、内面の美しさにも心を留め、それを口に出してたたえています。

 雅歌の読者は、婚礼を挙げたばかりの、花婿と花嫁の間に交わされる閉じたほめことばを聞いているのです。それは他の誰にも漏らされないものなのですが、神はご自分のことばとして聖書を読むすべての人に明らかになさったのです。

 「みことばの光」の「考えよう」に、「あなたは大切な人に、神の愛に基づいて励まし勇気づけることばを用いて交わっているだろうか」との問いかけに、どのように応えましょう。


愛が目ざめたいと思うまでは

2017年06月17日 | 雅歌

雅歌 2章

 きのうで、当地に来て満2年になりました。無事に2年を過ごすことができたことを神に感謝し、喜び合いました。

 愛し合う二人が、互いに相手の素晴らしさをたたえ合うことばが2章にも続きます。二人だけの間で交わされているとっておきの賛辞のことばを盗み聞きするような気持ちでもあります。

 女性は「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花」と自分を譬えます。文語訳聖書は「サフラン」を「野花」と訳しています。そしてこの訳語から、「かおりたえなる シャロンの野花よ」という聖歌が歌われているのだと気づきますね。

 雅歌の中には、二人のやりとりの合間に「エルサレムの娘たち」と女性が呼びかけている場面が見られます。この女性はエルサレムの娘ではなく、田舎の女性なのかもしれません。エルサレムの娘たちは、二人のやりとりを何かの折りに心に留めて、二人をはやし立てたのでしょう。

 けれども女性は、「愛が目ざめたいと思うまでは」そっとしておいてほしいと願うのです。愛しているのなら…、愛があるのだから…と燃える思いで突き進んでいけと回りがはやしても、彼女は時を待ちます。彼女にとっての「時」とは、神が二人を結婚に導く時です。若い信仰者が伴侶としてともに歩む人と出会い、愛を深め合ってその時を待つことができるように祈ります。


愛の対話

2017年06月16日 | 雅歌

雅歌 1章

 きのうの当地はカトリック教会の「聖体の日」で、祝日でした。ドイツでは全国一斉の祝日ではなくて、カトリック教会の信者の多い州では祝日、そうでない州では平日です。私たちは、中心部まで歩きました。繁華街のお店は一部のカフェやレストランを除くとすべてお休み。人でも多くありません。ですから、いつもよりもゆったりすることができました.けれども、公園にはたくさんの人。貴重な太陽をこの時期に…とばかり、多くの人が日光浴をしていました。

 「みことばの光」では、きょうから雅歌を読みます。「雅歌を読む前に」には、雅歌についてのさまざまな解釈を紹介しながらも、「語られていることばを自然に受け取ることが大切」と書いています。ですから、男女が互いに相手を向いて、人格的に性的に互いの愛の関係を築こうとする過程が描かれています。

 1章を読んで思ったのは二人が対話をしているということです。まだ二人は結婚には至っていないのでしょう。けれども、互いに相手の美しさや素晴らしさを賛辞し合います。

 女性は「私は日に焼けて、黒いのです」と恥じらいをことばにします。この女性が自分について気にしているところです。「みことばの光」が説くように、劣等感という影を引いているのかもしれません。8節はそんな「田舎娘」をからかうエルサレムに住む娘たちのことばなのかもしれません。

 ところが男性は、彼女を「わが愛する者。…何と美しいことよ」との賛辞を惜しみません。これは、どんなにか女性を慰め、男性に近づけたことでしょうか。

 このやりとりを通して、自分を神がどのようにご覧になっておられるのかということを、改めて静に考えられるのではないでしょうか。「ああ、ダメだ!」と嘆く自分を神はどのようにご覧になり、何とお声をかけてくださるのだろうか、と。


忘れないで

2012年06月23日 | 雅歌
雅歌8章


 今朝の新聞土曜版に「好きな果物ベスト10」という記事がありました。1位はいちご、2位は桃、3位はメロンなのだそうです。桃畑の近くで育ったので、もちろんマイベストワンは桃です。といっても、条件が…。堅い桃が好きなのです。「桃はとろけるように柔らかいからおいしいじゃないの?」とおっしゃる方が多いのですが、私の場合は堅い桃を洗って、かじります。パキッという音がする時があるくらいですから、堅いのがおわかりになるでしょう。
 それがおいしいのです。多分、桃の産地の山梨とか福島には、私のような食べ方をする人も結構いるのではないか、と思いますよ。
 ちなみに、嫌いな果物のベストワンも載っていました。ドリアン。
ところが、私にとってドリアンは食べたい果物ベスト3に入るのです。ずいぶん前にバンコクの教会の礼拝に出席した時、礼拝後に私たちを歓迎しておいしいドリアンをふるまってくださいました。いっしょに行った人は、「ゴミ箱の臭いがする! 」と食べられなかったのですが、私は「こんなにおいしいものを食べたことがない」と思ったのです。
 以来、ドリアンのファン。といってもそんなに普段は食べられるものではありませんが…。

 前置きが長くなりましたが、雅歌の通読も今日で終わり。雅歌にも、りんごやぶどう、ざくろなどの果実が登場しましたね。
 6節に、「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください」とあります。口語訳聖書では「私をあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください」と訳されることばです。私を忘れないでほしい、大切にしてほしいと花嫁は願っているのです。「私を忘れるなどということになったら、大変なことになるわよ」というようにも取られるような強いことばが続いています。

 私たちも主に「私を忘れないでください」と願うときがあります。決して忘れるようなことをなさらないと信じているのですが、「忘れないでください」「覚えてください」と祈らなければならないようなときです。
 
 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル人への手紙13章5節)とお答えになる主を覚えました。





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