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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

愛がそうしたいと思うまで

2022年06月21日 | 雅歌

雅歌 2章

 久しぶりのお湿りで、木々や草花はホッとしているように見えます。予報どおり、気温は昨日よりも一気に10度以上も下がりました。

 2章1節の「シャロンのばら、谷間のゆり」について、今日の「みことばの光」は「洗練されていない野生の草花」とし、劣等感をぬぐえない女性の心情を表しているようだと書いています。「ばら」は「サフラン」とも訳され、文語訳聖書は「野花」とあります。「シャロン」というのは、今のイスラエルの地中海沿いのテルアビブから北、カルメル山までの南北に長い地域で、肥沃な地です。

 多くの人に親しまれている聖歌580は、「香り妙なる シャロンの野花よ」と歌います。この讃美歌はイエス・キリストを「シャロンの野花」にたとえています。

 自信なさそうに「シャロンのばら、谷間のゆり」と自分をたとえる女性を、男性は、「茨の中のゆりの花のよう」と言います。茨だとたとえられた娘たちはさぞや憤慨することでしょう。しかし、男性はもちろん娘たちをおとしめているのではありません。愛する女性を誰よりも美しいと賞賛しているのです。すると女性は、愛する方を「林の木々の中のりんごの木のよう」と、これまた他の誰よりも素晴らしいと賞賛します。愛する相手は、自分にとって抜きん出て大切であり、輝いているのです。

 雅歌では、二人を取り巻く人々があちこちに登場します。二人の間柄を気にかけて、時には冷やかしているようなエルサレムの娘たちに、「愛がそうしたいと思うときまでは」そっとしておいてほしいと願っています。

 「愛があるなら…」と互いに相手を求め合い、感情のままに突き進んでもいいのだなどとはやし立てる中で、燃えるような思いを抱きながらも、抑制の効いた行動をとろうという女性の姿は、「自分で良いと思うのがいちばん良い」のではなく、すべてことには定まった時期があるとする、全能者への信仰を垣間見ることができます。


ありったけのことばで

2022年06月20日 | 雅歌

雅歌 1章

 この夏最初の熱波到来で、土日は最高気温36度。でも、日が変わる頃になると外気温は低くなり、朝はひんやりとした空気とともに目覚めることができます。月曜日には最高気温が14度も下がるとの予報が出ています。

 今日から雅歌を読みます。ある年齢までは、読んでいるとドキドキするような書でした。「雅歌のテーマは愛」と「みことばの光」の「雅歌を読む前に」の初めにあります。

 その愛は若い男女の互いに引かれ合う、相手の美しさや素晴らしさをありったけの言葉で表現することにも表れます。この書は「あの方が私に くちづけしてくださったらよいのに」から始まります。

 この書の女性が愛する相手は、多くの女性たちに愛されている存在。それがこの女性の心を騒がせます。そのような中、この女性の「私は黒いけれど美しい」ということばに目が留まります。それが彼女を尻込みさせる理由なのかもしれません。けれども女性は、愛する人といつも一緒にいたいという思いを隠しません。

 男性は、自分の黒さにしり込みする女性の美しさを、ありったけのことばで賞賛している。これがどれほど女性の心を慰め、支えることだろうか。どんなふうに自分自身のことを思っていても、私への愛を最高のことばで伝えてくれる男性は、主イエスの私たちへの姿勢をも考えさせていると読むことができます。


愛する者に寄りかかって

2017年06月23日 | 雅歌

雅歌 8章

 ヨーロッパの猛暑が日本でも報じられたとある方が言っていました。昨日も暑かったのですが、夕立があってホッとしました。涼風の中で書いています。

 雅歌も終章。ここには、困難を乗り越えて互いの愛を高め深め合う二人の様子が描かれています。

 5節の「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう」ということばに目が留まります。もしかしたら、雅歌に度々登場する「エルサレムの娘たち」のことばかもしれません。この章には、花嫁の母、兄弟が登場します。エルサレムの娘たちも登場します。まるでミュージカルのフィナーレのような場面を想像します。舞台中央には、夫と妻とが互いに寄りかかって登場するのです。

 「みことばの光」は寄りかかることで、二人の歩みが平安で穏やかなバランスの取れたものとなると、「寄りかかる」ということの意味を説いています。確かに、どちらか一方が依存するといつかバランスは崩れます。

 ここから私は、二人で森を歩く自分たちのことを思いました。寄りかかって歩いているということはないのですが、二人が同じ歩調で同じ方向に歩きます。森を貫く道の右側を歩くのですが、時々二人の間が開いて、後ろから来る自転車の「チリリン」という音であるべき間隔に戻されます。動作的にずっと寄り添って歩くわけにはいきませんが、気持ちとしては互いに寄り添って歩くのだと気づかされました。


私の愛をささげましょう

2017年06月22日 | 雅歌

雅歌 7章

 暑さが続きます。きょうの予想最高気温は34度とあります。さて、どんな一日になることやら…。

 7章から8章4節までは、夫と妻とが相手をたたえ合っているので、「愛の二重唱」と呼ばれているのだそうです。これらのほめ歌はメロディがついていたことでしょう。オリジナルを聴いてみたいと思いました。

 夫の妻の美しさをたたえることばは尽きることがないようです。今の私たちが読むと、ちょっとユーモラスに思えるようなたとえ方も、二人にとっては充分に愛を確認し合える美しいことばなのでしょう。これらのことばも、昔のことばで言えば「壊れたレコード盤」のように同じ台詞を何度も繰り返すのではなくて、相手の美しさを日々再発見していくのだというのが伝わってくるほどです。

 「みことばの光」は、夫が妻をたたえる「ああ、慰めに満ちた愛よ」ということばは、姿形をほめるだけでなく、夫が妻の人格を賞賛することばだと説いています。そのようにほめられた妻は、夫に「私の愛をささげましょう」、「これはあなたのために蓄えたものです」などと返します。

 このブログでは、雅歌を「自然に読む」、つまり男と女の間の愛の物語として読んできていますが、「私の愛をあなたにささげましょう」というのは、キリストの花嫁とたとえられるクリスチャンが花婿イエスに告白する愛のことばとでもありたいと願うのです。


成長

2017年06月21日 | 雅歌

で雅歌 6章

 暑さが厳しい中、夕方に森に避暑に行きました。森に入った途端、気温が二三度低くなったような気がします。ベンチに腰を下ろしていると、風がどこからとなく吹いてきます。汗が噴き出るほどの暑さではありませんが、それでも涼風に生気回復! でした。でも、そのあと歩いて買い物に行きましたら、また汗が…。

 行き違いを経て、二人の関係は回復に向かいます。妻が変わらずに夫を「私の愛する方」と繰り返し読んでいることに、真実な姿勢をみることができます。一方の夫は、妻への賛辞のことばをここでも繰り返します。夫の妻を愛する心は揺らぐことはありません。4-7節の夫のことばは、4章1-3節のそれとほぼ同じです。二人の間にいわゆる「マンネリ」ということはないのだ、何度も何度も相手の美しさをことばで伝えることの肝要さを教えられます。

 「みことばの光」が書いているように、二人は行き違いという危機を経験することによって、内面の変化、成長を経験しています。そして、互いの成長を相手が気づき、喜んでいる様子が伝わってきます。

 相手の非をなじり、変わってほしいと要求するのではなくて、危機の中で自分を見つめて変わるという成長が見られるなら、危機は神が二人に賜った試練でもあるということに気づきます。


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