歴代誌第二 27章
森の入口で男の子たちが落ちた枝を手にして、遊んでいました。今どき珍しい光景ですが、子どもの頃の「チャンバラごっこ」のようでした。
本章には、ウジヤの子ヨタム王のことが記されています。他の章と比較すると短い記述で、もしかしたら物足りなかったか、逆にホッとしたという人もいるかもしれません。短い記述というのは、波乱万丈ではなかったということかもしれません。これまでの王の歩みを振り返ると、はじめはよかったけれども繁栄や勝利によって高慢になり落ちぶれていくという姿が多かったように思います。しかし、ヨタムはそれがありません。
2節に、ヨタムがどのような王だったかが書いてあります。すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行ったというのは、父の治世を記す前章の前半部分を思わせます。そして、「ただし、主の神殿に入ることはしなかった」ということばは、父が犯した過ちを犯すことはなかったという肯定的な意味で捉えるのがよいでしょう。主の前に良き歩みをした王だったのです。
気になるのは、2節の終りのことばです。「民は依然として滅びに向かっていた」とあります。ヨタム王の主の目にかなう歩みにもかかわらず、民の歩みを主の目にかなうものにはできなかったということであり、全体としてユダも滅びへの道をゆっくりとたどっていくということを伝えています。
歴代誌は、捕囚からの帰還後しばらく経ったエズラの時代からイスラエルの歴史を顧みる書です。最初の読者(聴衆)は、「滅びに向かっていた」ということばにうなずいたのではないでしょうか。だからといって、ヨタム王の生き方に意味がなかったということではありません。ヨタムの歩みは、今を生きるキリスト者がどのように生きるかにつながっています。