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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の目にかなう王

2021年09月03日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 27章

 森の入口で男の子たちが落ちた枝を手にして、遊んでいました。今どき珍しい光景ですが、子どもの頃の「チャンバラごっこ」のようでした。

 本章には、ウジヤの子ヨタム王のことが記されています。他の章と比較すると短い記述で、もしかしたら物足りなかったか、逆にホッとしたという人もいるかもしれません。短い記述というのは、波乱万丈ではなかったということかもしれません。これまでの王の歩みを振り返ると、はじめはよかったけれども繁栄や勝利によって高慢になり落ちぶれていくという姿が多かったように思います。しかし、ヨタムはそれがありません。

 2節に、ヨタムがどのような王だったかが書いてあります。すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行ったというのは、父の治世を記す前章の前半部分を思わせます。そして、「ただし、主の神殿に入ることはしなかった」ということばは、父が犯した過ちを犯すことはなかったという肯定的な意味で捉えるのがよいでしょう。主の前に良き歩みをした王だったのです。

 気になるのは、2節の終りのことばです。「民は依然として滅びに向かっていた」とあります。ヨタム王の主の目にかなう歩みにもかかわらず、民の歩みを主の目にかなうものにはできなかったということであり、全体としてユダも滅びへの道をゆっくりとたどっていくということを伝えています。

 歴代誌は、捕囚からの帰還後しばらく経ったエズラの時代からイスラエルの歴史を顧みる書です。最初の読者(聴衆)は、「滅びに向かっていた」ということばにうなずいたのではないでしょうか。だからといって、ヨタム王の生き方に意味がなかったということではありません。ヨタムの歩みは、今を生きるキリスト者がどのように生きるかにつながっています。


驚くべく助けを得て

2021年09月02日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 26章

 土曜日に予定している「子どもクラス」のために部屋の掃除をしました。コロナ禍にあって長い間使っていなかったのでほこりっぽい感じでしたが、1時間半ほど6名で取り組んだ結果、きれいになりました。

 ウジヤ王の名前は、イザヤ書にも記されているのでなじみがあるかもしれません。預言者イザヤが聖なる主を見たのは「ウジヤ王が死んだ年」だったとイザヤ書6章1節に書かれています。イザヤの活動時期はこのウジヤから、ヨタム、アハズ、そしてヒゼキヤ王の時代と重なります。

 ウジヤはラキシュで殺されたアマツヤ王の子どもですが、16歳の彼を王として立てたのは、アマツヤを殺した人々ともしかしたら重なるのかもしれません。殺されるほどの王であったとしたら、もう世襲は止めにして別の者を王に立てようという考えも出るのかもしれません。

 しかし民は、ユダの王はダビデの家系のものであるという基本を外すことはありません。それは、民の思い以上に、ダビデとの契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった主によることだったのです。民は、主のみこころを受け継いでいたのです。

 ウジヤの治世は52年と長く、治世下には内政も外交も栄えたことが本章の前半を読むと分かります。きょうの「みことばの光」が書いていますが、私も「彼は農業を好んだのである」ということばを目に留めました。平和の時代ならではの姿がここに見られます。

 15節には「驚くべく助けを得て、強くなった」ということばもあります。しかし、この後のウジヤは悲惨です。「驚くべく助け」というのは主によるものでしたが、彼は強くなったことで高慢になり、王であったとしても許されていないことに足を踏み入れるのです。

 驚くべく助けを賜る方から目を逸らして、手柄を自分のものとすることがないようにとのメッセージをいただきます。


助言をさえぎる王

2021年09月01日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 25章

 公園にいろいろな木があります。そろそろかな? 妻はある木の下をよく見ながら歩きます。そして、実を見つけると嬉しそうです。その木とは、胡桃(くるみ)です。「収穫の秋」が来ました。

 歴代誌の記者は、アマツヤ王について「彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった」と評価します。そのように、本章にはアマツヤが行った主の目にかなうこと、なぜ「全き心をもって」ではなかったのかの理由として挙げられる出来事を記しています。

 アマツヤは、主が遣わされた神の人の助言に従い、北王国イスラエルの傭兵に頼らずに、セイル(エドム)と戦って勝利します。しかし、そのあとがいけません。エドムの神々を持って来て祀(まつ)り、それを拝むのです。主からの助言どおりにしたので勝利したにもかかわらず、主に感謝するどころか、主を捨てて主の怒りをかうことになります。

 敗北した敵の神々には力がないと分かったはずなのになぜ…? という素朴な疑問が湧いてきます。その理由は書いてありません。しかし、たとえ力がない神々だとしても、この時のアマツヤには魅力的に見えたのかもしれません。また、勝利は自分の功績だと考えた彼は、神々を持ち帰ることに何のとがめを感じることはなかったのかもしれません。

 アマツヤの人生はここから転落していきます。彼も父ヨアシュとともに、聞くべき助言を遮って自分の考えを通してしまったことが破滅につながるのです。「 高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」という箴言16章18節を思います。


信仰の自立

2021年08月31日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 24章

 夕方いつもどおりに歩いていると、何かフラフラします。具合が悪いのかなと心配になりましたが、よく考えてみると空腹によるものでした。

 7歳でユダの王となったヨアシュは、ダビデとの契約ゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった主が与えられた具体的なしるしのような存在でした。24章は、ヨアシュ王を書いています。ある意味、彼の王としての歩みは分かりやすいです。幼いときから彼をかくまった祭司エホヤダはヨアシュにとっては恩人というだけでなく、育ての親のような存在でした。エホヤダ存命中、彼は主の目にかなうことを行ったのです。そしてそれは神殿の修復工事に表れました。

 しかし、エホヤダの死とともに、彼の方向は正反対になります。17節のことばに目が留まります。エホヤダが死ぬと王のところにやって来たのはユダの首長たち。彼らはなぜ王を伏し拝んだのでしょうか。願い事があったのです。それが偶像に仕えるようにとの願いだったことは、前後関係から推測できます。王は彼らの願いを受け入れます。

 王の方向転換を、神は祭司ゼカリヤを用いて厳しく非難させます。「あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた」ということばが響きます。真っ当な助言をする者を陰謀によって殺すということで、自分たちの思いを成し遂げたいという野望に、ヨアシュ王も加わったのです。しかし、ヨアシュの最期は悲惨なもの。彼はあってはならない方向を転換をしたゆえに、自分に破滅をもたらしたのです。

 ヨアシュの歩みは、そばにいる人々のことばや助言によっていました。信仰の自立とはどのようなことなのだろうか…と、彼の姿から考えさせられます。


この町は平穏となった

2021年08月30日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 23章

 土曜日、結婚式に出席しました。式はおよそ1時間少しで終了。そのあとはお祝いの時間ですが、延々と続きます。しかし、来賓の挨拶や祝辞があるわけではなく、芝生の上にセットされたテーブルで皆で持ち寄ったケーキなどをいただきながらのティータイム。それがひとしきり終わると、夕食。ゆっくりと時が流れ、私たちが帰宅の途についたのは、お祝いが始ってから5時間半ほど経った夜の9時近くでした。良い時を過ごしました。

 アタルヤ支配下の6年間は、ゆったりと時が流れたというようなものではなく、多くの者が早く過ぎ去ってほしいとひたすらに願う6年間ではなかったかと想像します。

 そして7年目、祭司エホヤダが動きます。彼は一人残ったダビデ王家の子である幼子ヨアシュを隠したエホシェバの夫です。7歳になったヨアシュを王として立てるという計画は、もちろんアタルヤには極秘に、用意周到に進められました。そしてついに、その日が来ました。ヨアシュの王位就任とアタルヤの死の日が…。

 21節のことばが心に残ります。「民衆はみな喜んだ。アタルヤは剣で殺されこの町は平穏になった。」アタルヤ支配下の6年間、エルサレムには平穏がなかったことがここから分かります。凶暴な専制者、独裁者のもとにあることが社会から、そして一人一人から平穏を奪うのです。

 誰が王であるか、誰が上に立つかは、私たちが平穏に暮らすことができるかどうかを分けるほど大切です。イエス・キリストが私の王として、常に上に立っておられることのゆえに、私には平穏があるのだということをここから確認できます。いろいろなことが起こる中でも、イエスにある平穏が自分にはあるのです。


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