goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

一つでも

2015年01月20日 | レビ記

レビ記 4章1−12節

 月曜日は私たちの休日。午前中2歳の孫と「ベイマックス」という映画を観ました。孫はすでにお父さんと観ているのでこれが二回目。「うるさいかしら?」とちょっと心配でしたが、初めから終わりまで見入っていました。私自身は何もあらかじめの知識を持たずに観たのですが、良かったです。体の痛みを診断し、処置してくれるロボットが新しい情報をダウンロードして心の痛みを診断し、癒すようになるなんて…、と思いながらも、もしかしたら実現するかもしれないとも考えました。

 レビでに規定されている四つ目のいけにえは「罪のためのいけにえ」です。

 きょうの「みことばの光」には「無知や不注意によって誤って犯した罪のためにささげるもの」とあります。不注意でしたことならば大目に見ようという考え方も、私たちの間にはあります。作為によらないというならば、社会もその人を許すことがあるでしょう。けれども、神はそうではないのです。

 「一つでも行った場合」という2節のことばに目が留まります。ここには、一つぐらいは…という余地はありません。たった一つでもという厳しさが伝わってきます。はたして、罪に対するこれほどの緊張感を抱いているかということを問われることばです。

 それとともに、「罪のためのいけにえ」をささげるようにと主が民に命じられたのは、救いの道を示しておられるということです。そして、完全な救いの道が、神の子イエス・キリストの十字架だということに、心の目を開いてくれる箇所です。

 


脂肪は全部、主のもの

2015年01月19日 | レビ記

レビ記 3章

 この章は「和解のいけにえ」についての規定が記されています。「和解のいけにえ」と聞いてもピンとこないかもしれません。「口語訳聖書」では「酬恩祭(しゅうおんさい)」と訳されています。漢字そのものは今はどこかに行ってしまったような印象ですが、文字を解いていくと、いけにえの意味することがわかります。榎本保郎牧師は「神の恩寵に対する感謝、報恩の祭り」だと書いています(「ちいろば牧師の一日一章」)。また、ある英語聖書は「fellowship offering」と訳します。「友情のいけにえ」ということなのでしょうか。もともとは「peace offering」という意味だそうです。

 このいけにえでは、脂肪はすべて祭壇の上で焼き尽くさなければなりません。16節に「脂肪は全部、主のものである」とあります。脂肪で今の私たちが連想するのは、メタボなどということばでしょうか。ですから、脂肪は取り除いてなどという箇所を読んで、健康指向なのだなどと考えるようなことがあるかもしれません。けれども、聖書では脂肪は最も上等な部位だとされているのです。つまり、最も良い物は主にささげよということなのです。

 それでは、脂肪を焼き尽くした残りはどうするのでしょうか。7章15−21節には、和解のための感謝のいけにえの肉を食べることについての規定があります。残りは祭司とささげる者とがともに食するのです。その日のうちに食べよとありますので、ささげる者は友だちもその食事に招いたのではないでしょうか。

 最も良いものを主にささげているのだろうか、と問いましょう。


すべては神のもの

2015年01月17日 | レビ記

レビ記 1章

 目覚まし代わりのラジオは阪神淡路大震災20周年の特集。途中、森祐理さんのことばも読まれていました。大震災がその人に何をもたらしたかで、もう20年も…と思う人も、まだ20年しか…と感じている人もいることでしょう。神からの慰めと力があるようにと祈ります。

 「みことばの光」」による聖書通読はきょうから「レビ記」です。聖書を読むぞ! と心に決めた人が「創世記」から読み始め「出エジプト記」の途中までは比較的順調に読み進みます。ところが、「出エジプト記」の半分ぐらいから難しく感じるようになって、ついに「レビ記」で止まってしまうというのだそうです。「みことばの光」1月号40頁の「レビ記を読む前に」には、「現代の私たちの生活とはほど遠いもの、古代の儀式のように感じるからではないだろか」とありました。 

 しかし、「レビ記」も神が私たちにご自分からのことばとしてお与えになったものの一つ。現代の私たちが受け取るべきメッセージがここに込められています。「レビ記を読む前に」の終わりのことばは「レビ記を通してキリストの福音に触れていきたい」とあります。一見今の私たちの生活とは関係がないように思える記述には、キリストの福音に通じる大切なものが詰まっているのだというのです。

 1章は「全焼のいけにえ」についての命令。神がこんなにも愛してくださった私…。だから私は神のもの。神に私をささげますとの献身の姿勢がこのささげ物に表されます。ささげ物は牛でも羊でも鳥でもよいとの記述に、神の私たちへのご配慮を見る思いがします。

 ヨセフとマリヤが幼子イエスを伴い宮に行った時にささげた犠牲は、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところ基づくものだったという、ルカの福音書2章24節の記述を思いました。*レビ記12章6節も併せてお読みください。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki