レビ記 4章1−12節
月曜日は私たちの休日。午前中2歳の孫と「ベイマックス」という映画を観ました。孫はすでにお父さんと観ているのでこれが二回目。「うるさいかしら?」とちょっと心配でしたが、初めから終わりまで見入っていました。私自身は何もあらかじめの知識を持たずに観たのですが、良かったです。体の痛みを診断し、処置してくれるロボットが新しい情報をダウンロードして心の痛みを診断し、癒すようになるなんて…、と思いながらも、もしかしたら実現するかもしれないとも考えました。
レビでに規定されている四つ目のいけにえは「罪のためのいけにえ」です。
きょうの「みことばの光」には「無知や不注意によって誤って犯した罪のためにささげるもの」とあります。不注意でしたことならば大目に見ようという考え方も、私たちの間にはあります。作為によらないというならば、社会もその人を許すことがあるでしょう。けれども、神はそうではないのです。
「一つでも行った場合」という2節のことばに目が留まります。ここには、一つぐらいは…という余地はありません。たった一つでもという厳しさが伝わってきます。はたして、罪に対するこれほどの緊張感を抱いているかということを問われることばです。
それとともに、「罪のためのいけにえ」をささげるようにと主が民に命じられたのは、救いの道を示しておられるということです。そして、完全な救いの道が、神の子イエス・キリストの十字架だということに、心の目を開いてくれる箇所です。