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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

命じられたとおりに

2015年01月26日 | レビ記

レビ記 8章

 きのうの日曜日、東京三河島にある教会に伺いました。この教会のみなさんとは、この10年間、いっしょにライブをしてきたつながりがあります。春には三河島の教会で、そして秋には私たちの教会でライブを年に一度ずつ行なってきました。今年はもうすぐ、3月21日の祝日にあります。

 きょうの箇所は10章まで続く「祭司の聖別」についての初めの部分です。8章は祭司が任職されたこと、9章では祭司の務めが始まったこと、そして10章には祭司が起こした事件が記されます。

 「みことばの光」が書くように、8章には「モーセは主が命じられたとおりにした」ということばが何度も繰り返されています。出エジプト記29章で主がモーセに教えられたとおりに、大祭司アロンが任命されるということが大切なのだということを、改めて考えます。

 人が大祭司を選んで定めるのではなくて、神がお召しになる…この基本は、今の教会が議決機関によってさまざまな務めに就く人を選ぶということにも通じるのではないかと考えます。

 昨年「教会が牧師を迎えるということ」というテーマでの研修を持ちました。その中で講師が、どのような方法によって牧師が選ばれ、迎えられるにしても、自分たちが選び迎えたのではなくて、神がお選びになりお遣わしになるのだということが大切、というような主旨のことを話していました。

 「命じられたとおりに…」とのことばの繰り返しから、そのようなことを思い起こします。


祭司のものとなる

2015年01月24日 | レビ記

レビ記 7章1-10節

 

 お気づきかと思いますが、このブログのカテゴリーを聖書箇所別のものにしています。たとえば創世記ならば、創世記のカテゴリーを選びますと、これまでのブログの中から創世記だけをピックアップして読むことができます。少しずつ移行していますので、完了まで今しばらくお待ちください。

 きのうも書きましたが、6章8節から7章にかけては、いけにえをささげる際の祭司の務めについての規定が記されています。

 ここで繰り返されているのは「祭司のものとなる」ということばです。罪過のいけにえについていえば主への火によるささげ物として焼き尽くさなければならない脂肪のほかの部分、全焼のいけにえでいえばいけにえの皮の部分、穀物のささげ物でいえば…というようにです。主は、いけにえをささげるという務めを行う祭司が、その務めによって糧を得るようにとお定めになっているのです。これによって、祭司は主への奉仕に自分たちのすべてを費やすことができました。

 そしてその原則は、新約聖書においても受け継がれていることを、コリント人への手紙第一9章13、14節などによって確かめることができます。主の民が持つべき責任の一つを覚えることができます。

 

 

 


消してはならない

2015年01月23日 | レビ記

レビ記 6章

 新共同訳聖書をお用いの方は、きのうときょうの章節の区分が違うのにお気づきになったと思います。新共同訳聖書は新改訳聖書の6章1−7節を5章20ー26節とします。これは、新共同訳聖書がヘブル語聖書の区分に沿っているからです。確かに、内容的には6章7節までは「罪過のいけにえ」についての規定が続き、8節からはいけにえをささげる際の祭司の務めについての規定が記されています。

 9節と13節に祭壇の火は燃え続けさせなければならないとあります。「みことばの光」はこのことについて、「民がいつでも悔い改めてことができるため」だと書いています。神とご自分の民との契約が永続することを、そして神が常に変わらずに民とともにおられることを象徴するのが、燃え続ける祭壇の火だからでしょう。

 思い起こすのは、イスラエルの民が荒野の旅をする間、ずっと昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いたということ。火が絶やされないということは、全焼のいけにえが焼き尽くされるために必要であり、そこから立ち上る煙が主へのなだめとなったのだというのを覚えます。そして、いつでもどこででも、私たちが主に祈ることができる幸いが、イエス・キリストの十字架によって実現したことのすばらしさを改めて知ります。

 きょうはこれから川越に向かいます。きのうよりは暖かくなると予報がありますが、どうなのでしょうか。


赦される

2015年01月22日 | レビ記

レビ記 5章

 東日本大震災を機に互いに祈り合うという交わりをいただいた、福島県南相馬市にある原町聖書教会のI牧師ご夫妻が、きのう私たちの教会を訪ねてくださいました。いっしょに午前の祈りの会で聖書を読み、祈りました。みなさんは突然の来会にびっくり。でも、大喜びで迎え、すばらしい時を持つことができました。薄皮まんじゅう、くるみゆべし、そしてエキソンパイおいしい福島の銘菓がお土産でした。ごちそうさまでした!

 5章13節までは特定の罪を犯した場合の「罪のいけにえ」について、14節以下は神や隣人が所有する財を侵害した場合のいわゆる「罪過のいけにえ」についての規定が記されています。

 人はいろいろな場合に気づかずに罪を犯し、後になって咎めを覚えることがあるのだということに気づかされます。そのような心に生じた負い目を放っておくのではなく、通るべき道を通って神からの赦しを得よというのです。そのためのささげ物については様々。持つ者も持たない者も、等しく罪のいけにえをささげることによって赦しを得るというのです。

 貧しい者がささげる十分の一エパの小麦粉について、「みことばの光」は一日の食事分だと説明します。一日食を立って空腹を覚えてもなお、罪の故の咎めを負い続けるよりははるかにましだということが言えるでしょうか。確かに、心のどこかにやましいところがありながらご馳走を食べても、少しもおいしくありません。

 このような道を主が罪人のために設けてくださったことに感謝。そして今は、信じて悔い改めることによって罪が赦されることにさらに深い感謝をささげます。「みことばの光」ではそれを「空前絶後」のことだと書いていますね。


いけにえの血

2015年01月21日 | レビ記

レビ記 4章21−35節

 年末から年始にかけて心に掛かっていた方から電話をいただきました。寒空の中どうしているかしらと思っていましたが、電話の向こうではお元気な声。一安心です。

 レビ記4章後半には、様々な階層の人があやまって罪を犯し、後で咎(とが)を覚える場合にどのようなことによって罪が赦されるかが記されています。上に立つ人が罪のためにささげるいけにえは傷のない雄やぎ、一般の人がささげるのは傷のない雌やぎ、ほかに子羊をささげる場合があることがわかります。この章の前半では、祭司やイスラエルの全会衆ががあやまって罪を犯した場合には傷のない若い雄牛を罪のためのいけにえとしてささげるとありましたので、だれが罪を犯したかによって何をささげるかが異なっていたのです。けれども、ささげ方は基本的には同じです。

 「みことばの光」は「罪を犯すということに関しては、貴賤の別がないこと、特別扱いやえこひいきもないことがわかる」とあります。祭司だから大目に見てとか、上の人にはお手柔らかになどということがないのです。「すべての人は罪を犯した…」との聖書のことばを思い起こします。

 人は互いを職業や立場で判断しやすいものです。しかし、神の御前では等しく罪を贖われなければならない者だということに気づかされる箇所です。そして、罪のためのいけにえの特徴はいけにえの血が流され、血が塗られ、血が注がれるということにあります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(ヨハネの手紙第一 1章7節)との聖句を覚えます。


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