レビ記 14章21−32節
滅多にしない「食レポ」を…。
オフィス街にある中華料理店、1時少し前に入りましたがまだまだ人でごった返していました。お隣の方が熱々の鉄鍋でぐつぐつ煮え立っている見るからに辛そうなものを食べています。メニューを見ると「麻婆豆腐定食」。これだ! 初めての店では一番のオススメを(もちろん予算が許す範囲で)と思っているので、迷わずに注文。
いやぁ! 辛かったです。でもこの辛さがたまりません。ごはんが進みます。お隣の方がまだ途中なのに席を立ってカウンターに向かいます。そして戻って来た時には小皿に水餃子が3個。何と、水餃子は3個まで無料だというのですから、もらわない手はありません。…さらに、テーブルにはつぼに入った中華サラダも。これは食べ放題だそうです。このあと会議なのに…口の辛さが気になります。でも、満足のお昼でした。
ツァラアトに冒されていた人がきよめられるための手順の中に、貧しくてささげ物を求めることのできない人のためにとの文言があります。貧しいから「きよい」との宣言を受けられない、宿営の中に再び住むことが許されないということのないための配慮です。「みことばの光」は、この箇所からキリストのお姿を見せています。確かに、私たちが罪を赦されて新しいいのちにあふれて歩み出すために、神は何の代価も私たちにはお求めになりません。ご自分の御子のいのちという代価を提供してくださったのだということを覚えます。これが、ほんのわずかでも神が何かを私たちに要求なさるのだとしたら、洩(も)れる人が必ず出てきます。
お金がないからお昼をがまんしようということとは違います。死からいのちへと移されるという大事に際し、私たちに神が信仰以外の何も要求なさらないのだというのは、何という恵みでしょう。