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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

何という恵み

2015年02月13日 | レビ記

レビ記 14章21−32節

 滅多にしない「食レポ」を…。

 オフィス街にある中華料理店、1時少し前に入りましたがまだまだ人でごった返していました。お隣の方が熱々の鉄鍋でぐつぐつ煮え立っている見るからに辛そうなものを食べています。メニューを見ると「麻婆豆腐定食」。これだ! 初めての店では一番のオススメを(もちろん予算が許す範囲で)と思っているので、迷わずに注文。

 いやぁ! 辛かったです。でもこの辛さがたまりません。ごはんが進みます。お隣の方がまだ途中なのに席を立ってカウンターに向かいます。そして戻って来た時には小皿に水餃子が3個。何と、水餃子は3個まで無料だというのですから、もらわない手はありません。…さらに、テーブルにはつぼに入った中華サラダも。これは食べ放題だそうです。このあと会議なのに…口の辛さが気になります。でも、満足のお昼でした。

 ツァラアトに冒されていた人がきよめられるための手順の中に、貧しくてささげ物を求めることのできない人のためにとの文言があります。貧しいから「きよい」との宣言を受けられない、宿営の中に再び住むことが許されないということのないための配慮です。「みことばの光」は、この箇所からキリストのお姿を見せています。確かに、私たちが罪を赦されて新しいいのちにあふれて歩み出すために、神は何の代価も私たちにはお求めになりません。ご自分の御子のいのちという代価を提供してくださったのだということを覚えます。これが、ほんのわずかでも神が何かを私たちに要求なさるのだとしたら、洩(も)れる人が必ず出てきます。

 お金がないからお昼をがまんしようということとは違います。死からいのちへと移されるという大事に際し、私たちに神が信仰以外の何も要求なさらないのだというのは、何という恵みでしょう。


彼はきよい

2015年02月12日 | レビ記

レビ記 14章1−20節

 きのう、近くの古墳公園の芝生の上でしばらくぶりにでんぐり返しをしました。すると、その格好を幼稚園卒園児のお父さんに見られてしまいました。ほんとうに久しぶりの再会です。立ち話でしたが、その方の近況と抱いておられる夢を聞かせてくれました。「もうあとは、ゆっくりと老後を…」というのもいいものですが、「これをして、あれもして…」というお話は、聞く側に元気を届けてくれました。

 きょうの箇所には、ツァラアトに冒された人がきよめられる順序が細かく記されています。ツァラアトを宣告された時の悲嘆を思うと、きよめられるための一つ一つの順序を踏んでいく中でのこの人の思いが、どれだけ喜びと希望にあふれていることだろうかと想像してしまいます。宿営の外にいなければならなかったその人が、祭司の「きよい」との宣言によって再び家族や友といっしょに暮らすことができるのです。ツァラアトに冒された人に、「わたしの心だ。きよくなれ」と主イエスが宣言なさったという出来事を覚えました。⇒マルコの福音書1章40ー45節 

 罪人の罪を赦しきよめるための一つ一つの手順をすべてご自分の側で行ってくださった主イエスに、どのような感謝を表せるのか、黙想します。


手引に添って

2015年02月11日 | レビ記

レビ記 13章29−59節

 朝歩きの終盤に立ち寄る公園の梅の花はまだまだの感ですが、白梅と紅梅が一本ずつ花を咲かせていました。当地の今朝は、ちょっと寒さが緩んだかな? と体感しました。

 きょうの箇所には、ツァラアトの疑いを持つ人や衣服を祭司が調べて、きよいとか汚れているとか宣言をするようにとの手順のようなことが記されています。45、46節からは、祭司によって汚れていると宣言されたツァラアトの者の孤独と悲哀とが伝わってきます。自分が調べ、宣言することによって、ある人の人生が大きく変わってしまうのですから、祭司の責任の重さはどれほどのものなのだろうかと考えてしまいます。

 ですから、祭司のために備えられた「診断の手引」を忠実に運用することによって、祭司は不必要な悲しみと困難とを民に伝えることを防ぐことができるのです。調べ宣言するのは祭司。だからこそ主は、このような細やかな「手引」を備えてくださっているのだ…、などいろいろと考えさせられる箇所です。 

 


宣言する

2015年02月10日 | レビ記

レビ記 13章1−28節

 

 13章と14章は、ツァラアトと訳された疾患についての規定を記します。ツァラアトはヘブル語を音訳したもので、新改訳聖書の第二版までは「らい病」と訳さていました。その典型的な症状は「患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えている」ということにあります。

 ツァラアトは、長い間ハンセン病のことであると解釈されてきましたが、現代では否定されています。新共同訳聖書は「重い皮膚病」と訳しますが、なにをもって「重い」とするかについては難しいところがあります。

 この箇所についての注解の中には、ツァラアトであるかないかの決定をするのは祭司であり、判断はとても難しいものであるので、祭司でなくてよかったというのが実感であると書いているものもありました。なるほど…と思います。

 きのう、11−15章が「きよいものときよくないものの区別」がテーマだと書きました。このことを踏まえて改めて読むと、聖い神の前に立つにふさわしいとはどのようなことかについて、このような皮膚の病を持つ場合には神の前に立つにふさわしくないから、祭司はそれをよく見きわめるようにとの勧めだということです。

 主イエスの十字架によってきよいものとされたとの事実に目を留め、約束を信じて罪を悔い改めつつ歩む…、これが、聖いお方の前に立つにふさわしいきよさなのだということを覚えるのです。

 「あなたの罪は赦された」と力強く宣言した主イエスのことばを思い起こしました。

 


こもらなければ

2015年02月09日 | レビ記

レビ記 12章

 きょうから「みことばの光」は、再びレビ記を読み進めていきます。レビ記11章から15章は「きよいものときよくないものとの区別」という見出しをつけることができます。きょうの箇所は「出産後のきよめ」についてです。

 女性が男児を産んだ場合には四十日の間、女児を産んだ場合には80日の間こもらなければならないとあります。これは、「血のきよめのために」とありますので、出産の際に出る血を含む分泌物のゆえの規定ではないかと考えられています。

 「こもらなければならない」とのことばを思い巡らします。この間、母親はこもらなければなりません。それは、母親の体と心のために大切な期間であり、また産まれた赤ちゃんとの間に与えられた必要な期間だったのではないでしょうか。

 女性は産後を大事にしなければならない、無理はしてはならないというのは日本でもよく言われること。神は、いのちをこの世に生み出すという大事を成し終えた女性に、「こもらなければならない」として、守りを与えてくださったのではないか、と考えます。


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