goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

白い馬に乗って

2022年12月17日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 19章11−21節

 快晴の金曜日、気温はなおも低いままでしたが、陽射しの中を歩くのは心地よい! もう少しで冬至ですね。

 11節の「私は、天が開かれているのを見た」とのことばに目が留まります。開かれて彼が見たのは白い馬であり、その馬には「確かで真実な方」が乗っています。「血に染まった衣」、「神のことば」、「王の王、主の主」など12−16節で描かれているひとつひとつのことから、この方がイエス・キリストだと分かります。

 この方は剣によって、杖によって、足によってさばきを行われます。「鉄の杖で彼らを牧する」ということばは、詩篇23篇の「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」を思わせますが、ここでの杖は厳しいさばきを行うためのものです。そして、獣と獣に操られる王とその軍勢と、白い馬に乗る方そその軍勢との戦いがあるのですが、結果は明らか。

 ヨハネはパトモス島でこの幻を見て、どれほどの慰めを得、希望を抱いたことでしょう。また、この書を読んだ七つの教会も、白い馬に乗ったお方が悪をさばかれるということばに、教会の主であられるイエスへの信仰の純潔を保とうという決意を新たにしたのではないかと考えます。

 私たちは今、待降節(アドベント)を過ごしています。どんなプレゼントを贈るかもらえるか、どんなご馳走を用意するか食べるか、どこに出かけようかということが多くの人々の頭の中を占めていて、この聖書箇所に明らかにされている情景など関係がないのかもしれません。しかし、ここは待降節に読むにふさわしい箇所の一つです。

 何を待つのか、誰を待つのかを考え、「来てください」と願うのが今、なのです。


ハレルヤ

2022年12月16日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 19章1−10節

 夏に身体を冷やすためのものが、寒い今は身体を温めるために利用できます。レンジで1分ほどでホカホカです。教えてくださった方、ありがとうございます!

 この章は天での大群衆の賛美から始まります。そして最初のことばは「ハレルヤ」。「主をほめよ」という意味ですが、きょうの「みことばの光」も書くように、新約聖書でこのことばは本章で用いられている4回だけだというのは、意外な感じがします。

 「ハレルヤ」も「アーメン」も、特に翻訳しなくても世界中で通用することばだというのは驚きです。ここには、なぜ「ハレルヤ」なのかについて、いくつかの理由が明らかにされています。

 一つは、「神のさばきは真実で正しいから」です。黙示録は私たちの日常には到底見たり聞いたりすることのできない光景やことばが続き、しかもそれらの「謎解き」に走ってしまうと、この書が何を伝えようとしているのかが分かりにくくなってしまいます。しかし、この書が明らかにしていることは、神のさばきは真実で正しいということです。どんなにひどい、理不尽なことをキリスト信仰のゆえに経験しているとしても、やがて神はすべてを正しくさばかれるという希望が語られているのです。

 二つ目は、大バビロンが倒れるからです。きのうの本欄の終わりに、「世と、世の欲は過ぎ去ります」という聖句を置きました。どんなにきらびやかで魅惑的であったとしても、それは終わるのです。自然に終わるのではなくて、神が終わらせるのだというのが、ハレルヤの理由です。

 そして三つ目は、神が王となられるということです。イエスを信じる者にとって、このことはすでに実現したのです。しかし、誰もがわかるようにして神こそが私たちの王なのだという日が必ず来るのです。

 そこを目ざすのですから、日常の小さなことに神のお働きを見いだして、「ハレルヤ」と言いたいと思います。


世と世の欲は過ぎ去る

2022年12月15日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 18章11−24節

 一日置いて外に出たら、雪の中を歩くことに…。気温が低いので粉雪でサラサラしていました。

 ここには、大バビロンが倒れたことで、大きな損失を被る人々の嘆きが描かれています。商人たちは、最高の得意先を失って茫然自失し、大きな悲しみに襲われます。12−13節には、商人たちが大バビロンを相手に扱っていた贅沢品が並びます。驚くのは、そこに「人のいのち」があることです。いのちが売り買いされるということに、金さえあれば何でもできる、何でも買えるという人間の傲慢が現れています。さらに、水夫をはじめ海で働く人々も大バビロンの消滅を泣き悲しみます。

 目に留まるのは、営々として蓄えてきたこれらの富、贅沢品があっという間になくなってしまうという描写です。この部分には「一瞬にして」ということばが繰り返されています。このようなことがありうるということは、これまでの歴史が明らかにしてきたことです。しかし、私たちはそれでも物を、富を、栄誉を、力を追い求めます。

 この部分からもう一つ目に留まるのは、大バビロンの崩壊を喜べと促されている人々がいることです。天であり、聖徒たち、使徒たち、預言者たちです。なぜ大バビロンの崩壊が喜びなのか。それは、彼らの繁栄は神を恐れて神に従う者たちが流した血と無関係ではないからです。

 ヨハネは、「 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます」と手紙に書きました。⇒ ヨハネの手紙第一2章17節 彼はパトモスで、自分が書いたとおりのことがこの世界に起こることを確信したのです。


夢物語?

2022年12月14日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 18章1−10節

 一日中、冷蔵庫の中にいるような気温でした。室内でも一枚多く着込んで、寒くなったら歩き回っています。月曜日の夜、近くで事件があったので、念のため火曜日の外歩きは中止に…。

 ここは17章でヨハネが見た大淫婦、大バビロンが倒れたという、御使いの力強い声から始まります。この黙示録で、ヨハネは驚くような光景を見るだけでなくて、驚くようなメッセージも聞くのです。

 神のさばきのゆえに滅ぼされるものが、大淫婦、大バビロン、また女と名が付けられていることからも、淫行にふけり、力を振るい、贅沢を求め、喜びとする価値観に支配される国、都市、そして人々の姿が浮かんできます。

 力を持つと、人はより多くの力を持ちたいという願いが起こり、また、その力を奪われてはならないという恐れも同居します。歴史は強い国が弱い国を征服し、さらに強い国を征服して強大になり、やがてそれも、次の強大な権力者に取って代わられるということを繰り返してきました。この頃は防衛費のことがニュースに上ります。従来のGNPの1パーセントという縛りが、気がついてみると2パーセントになっています。

 それぞれの国が自分たちの今の領土や力で満足し、他国に攻め入ることをしないなら、軍事費は必要がないのですが、ここに描かれる崩壊する大バビロンの姿からは、そんな話は夢物語だということになります。しかし、このような価値観はやがて神のさばきによって崩壊させられるのですから、繁栄、浪費、放蕩こそ夢物語なのです。

 しかし、ここを私たちは他人事と読むことはできません。キリスト者、教会は大バビロンの中に遣わされているのです。目を覚ましていないと、私たちもこの「魅惑的な」価値観にいつの間にか呑み込まれていくのです。アブラハムのおいのロトと家族が、ソドムの近くに住んだゆえに、やがて大きな災いに遭ったことを思います。

 きょうの「みことばの光」には、ラオディキアの教会の名前があります。私たちは大淫婦の餌食となってはいないだろうか…、と問われます。


神のことばが成る時まで

2022年12月13日 | ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録 17章

 このところ冷え込んだ日が続きます。月曜日の朝は雪景色。「犬は喜び……」とばかり、早速近くの公園を雪を踏みしめながら歩きました。出かける時には寒さを感じますが、帰って来ると身体が温まっているのが分かります。

 ここで、ヨハネはさらに新しい幻を見ることになります。彼が見るのは、大水の上に座している大淫婦を神がさばかれる場面。3節以降に、御使いから聞かされた大淫婦の姿が描かれます。

 彼女は神を冒瀆する名で満ちている緋色の獣に乗り、七つの頭と十本の角を持っています。さらに高貴なものが着る衣を身にまとい、高価な宝石で飾り立てています。この女の姿は、力と富を自分の手にしています。

 注目すべきは、彼女が手にし、頼りにしているもののすべてはやがて潰(つい)えさるということが確かだということです。18節に「あなたが見たあの女は、地の王たちを支配する大きな都のこと」だとあります。ヨハネの時代、それは紛れもなくローマを指していたのです。そして、ヨハネはそのローマによってパトモスに流され、アジアの七つの教会はローマによる圧力迫害に耐え忍んだり、あるいは妥協して教会のあり方を失いかけていました。

 しかし私は、改めてここからこれらの権力や力の行く末がどうであると聖書が伝えているのかということに目を留めることが必要だと知らされます。大淫婦はローマにとどまらず、今に至るまで人を惑わせ、力で押しつぶそうという働きかけを続けています。キリスト者も気がつかないうちにその大きな罠の中にはまり、誘惑に陥ってキリストの香りを失ってしまうという危機にさらされています。17節の「神のことばがなる時まで」を励まし、支えとして歩みます。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki