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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ああ、愚かなガラテヤ人

2019年02月12日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 3章1−14節

 イスラエルの旅もきょうが最終日。月曜日はダビデの町の下に掘られている「ヒゼキヤのトンネル」を歩きました。この日の体感気温は10度ほど。そんな中で膝下ぐらいの水量とは言え、30分近くも歩いたら体が凍えてしまうのではないのかと心配もしましたが、ユダの王ヒゼキヤがアッシリアの攻撃に備えて掘らせた水路を、無事歩き通しました。トンネルの中はむしろ暖かいくらいでした。午後はラキシュの遺丘、それからダビデとゴリヤテの戦いの場であるエラの谷を訪ねました。

 この箇所は、「ああ、愚かなガラテヤ人」というパウロの嘆きのことばから始まります。だれかに向かって「愚かな…」と言ったら、相手の機嫌を損ねてしまうに違いありません。けれどもパウロは、あえてそのように言うのです。

 繰り返しになりますが、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるという福音を信じて誕生したガラテヤの諸教会が、信仰のみの道を捨てようとしているのですから、「愚かな…」と嘆くのです。この嘆きは、ガラテヤの諸教会の「生みの親」であるパウロならではのものです。

 人は信仰によって神に義と認められるというのが正しいことを、パウロはイスラエルの民の父として尊敬されているアブラハムの例を挙げて論じます。心に留めるのは、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」という13節のことばです。

 「愚かな者」になるのでなく十字架のキリストを見上げる者に…、と願います。


キリストともに十字架に

2019年02月11日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 2章11−21節

 訪ねている町には路面電車が走っています。ドイツなどヨーロッパの各地で走っているのと同じような、おしゃれなデザイン。乗りたかったのですが、今回は写真を撮るだけでした。

 「旧市街を囲む城壁の大きさは時代とともに変化してきた」との解説や、かつての地平の高さと今のそれとは違っているとの話を聞くと、一つの町や国が大きく変わって行くことを実感できます。いや、そんなに長い間隔でなくても、いろいろなことが変化しているのを経験することでしょう。

 パウロがこの手紙で、そしてこの部分でとくに伝えたいのは、「人は信仰によって義と認められる」、つまり「イエス・キリストを信じることによって義と認められるという福音です。けれどもこの福音の真理は、ガレテヤの諸教会に入り込んできた、いわゆる「ユダヤ主義者」によって変えられようとしていました。使徒でさえも、福音を台無しにしてしまう行動をとっていたのです。ここでパウロから叱責を受けたのはケファ(ペテロ)です。あのケファでさえ…と思わせる部分ですね。そしてパウロはペテロを叱責しました。

 それは、福音を守るための大切な叱責でした。パウロは、相手が使徒であったとしても、「あの人はペテロだから」などという遠慮はしません。多くの人々の面前でペテロのことを非難したのです。変える力から福音を守らなければならない、というのはこれほどまで大きな戦いなのだと言うことについても考えさせてくれます。

 パウロが「変えてはならない」と踏みとどまってくれたことゆえに、今の私がいるのです。


人間によらない

2019年02月09日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙1章11-24節

 真っ赤なアネモネや薄紫のシクラメンの咲く丘の上からイズレエルの平原を見渡して、士師記やサムエル記、そして列王記に記されている人々や出来事を思い起こしました。

 パウロは自分が経験したことによって福音が人間によるものではないことを、ガラテヤの人々に伝えようとしています。

 まず、自分は神の教会を熱心に迫害していたと書きます。そんな私を福音を伝えるようにしたのは、神以外にはありえないというのです。彼はこの時、ダマスコに向かう途中に主イエスが自分に会ってくださったという出来事を思い起こしながら書いていました。いや、そのことは決して忘れることのない鮮烈な経験でした。その時パウロは、だれにも相談することなく、エルサレムの使徒たちにさえ相談しなかったと続けています。さらに、三年後にエルサレムに上った時にも、主の兄弟ヤコブ以外に会うことはしなかったというのです。

 パウロが言いたいのは、福音とはパウロと使徒たち、パウロとだれかが相談して作り上げて、ガラテヤの諸教会に運んだものではなく、全く神からの啓示によるものなのだということです。パウロの福音は間違いで、モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければならないと教えて教会を混乱に陥れていた人々の非難に、断じてそうではないと反論するのです。

 ここには、体を張って福音を守り抜こうとしているパウロの姿があります。パウロだけでなく、多くの人々が福音に混ぜ物をしないように守り続けた先に、私がいるのです。そして私も福音を守り、伝える者としてあるのです。


他の福音

2019年02月08日 | ガラテヤ人への手紙

ガラテヤ人への手紙 1章1−10節

 昨日は、アルベル山上、アッコ旧市街、カペナウム、山上の垂訓の丘と巡りました。天候も曇りから雨、それから後に晴と、一日に三種類を体験しました。山の斜面には、白や赤、紫、そしてアト色とりどりの花が咲いています。

 「みことばの光」ではきょうからガラテヤ人への手紙を読みます。ガラテヤの諸教会はパウロたちの最初の伝道旅行によって誕生しました。ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベがその町々です。イコニオムがトルコのコンヤですので、地図でご確認ください。

 迫害され、いのちの危機を通りながらも誕生したこれらの町の教会に大きな危機が訪れました。イエス・キリストを信じて人は神の前に義とされるという福音をねじ曲げようという動きがあったのです。それは、信じただけは救われず、ユダヤ教の習慣に基づかなければならないというものでした。

 そのような教えを教会に吹き込む者たちは、これらの教会の「生みの親」だったパウロへの信頼をぐらつかせようとしました。つまり、パウロはほんとうは使徒ではないと教えたのです。ですから、この手紙の初めのあいさつの、しかもいちばん初めに、パウロは自分がキリストと父なる神によって使徒とされたと伝えるのです。

 それは自慢するのではなくて、キリストの福音が曲げられないためでした。どちらに権威があるのかと迫るります。

 「他の福音はない」のです。


明らかになる時が…

2014年02月11日 | ガラテヤ人への手紙
ガラテヤ人への手紙6章


 きのう、雪かきをした家の前と雪かきをしなかった家の前の…などと書きましたが、その後車で出かけながら、もしかしたら、雪かきをしなかった家の主はご高齢なのか、お病気なのかしら…と妙に心配になってしまいました。何十年に一度の大雪がいろいろなことを考えさせてくれます。

 ガラテヤ人への手紙はきょうでおしまい。もっと読んでいたいような気持ちです。
 「みことばの光」のタイトルは「生き方で示そう」。

 6章を読んで思ったのは、今はまだわからないが、いつか必ず明らかになる時が来るということです。
 「りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思う…誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、…人にはおのおの、負うべき自分の重荷があるのです」とのことばは、ガラテヤの諸教会を惑わしていた「割礼派」の人々のことを念頭に置いてのことでしょうか。
 この人々は、自分たちの教えになびいた人々やそれに影響されて割礼を受けた人々を数えて誇っていたのかもしれません。けれども、それが本当に誇るべきことなのかが必ず明らかになるのです。

 一方でパウロは、ガラテヤの兄弟たちを励まします。
 「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」教会内の互いの間に疑心暗鬼があると、良きわざを行おうということに弱気になったり、疲れてしまうようなことがあります。
 けれどもパウロは、そんなことに負けて愛をもって互いに仕えることをやめてしまわないようにしよう、いつか必ず良い収穫を得る時が来るから…と言うのです。

 きょうは「信教の自由を守る日」。「今」を正しく嘆き憂いながらも、主が約束しておられる「時」に希望を抱いてこの人を覚えたいものです。
 「時期が来て…」




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