ガラテヤ人への手紙 3章1−14節
イスラエルの旅もきょうが最終日。月曜日はダビデの町の下に掘られている「ヒゼキヤのトンネル」を歩きました。この日の体感気温は10度ほど。そんな中で膝下ぐらいの水量とは言え、30分近くも歩いたら体が凍えてしまうのではないのかと心配もしましたが、ユダの王ヒゼキヤがアッシリアの攻撃に備えて掘らせた水路を、無事歩き通しました。トンネルの中はむしろ暖かいくらいでした。午後はラキシュの遺丘、それからダビデとゴリヤテの戦いの場であるエラの谷を訪ねました。
この箇所は、「ああ、愚かなガラテヤ人」というパウロの嘆きのことばから始まります。だれかに向かって「愚かな…」と言ったら、相手の機嫌を損ねてしまうに違いありません。けれどもパウロは、あえてそのように言うのです。
繰り返しになりますが、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるという福音を信じて誕生したガラテヤの諸教会が、信仰のみの道を捨てようとしているのですから、「愚かな…」と嘆くのです。この嘆きは、ガラテヤの諸教会の「生みの親」であるパウロならではのものです。
人は信仰によって神に義と認められるというのが正しいことを、パウロはイスラエルの民の父として尊敬されているアブラハムの例を挙げて論じます。心に留めるのは、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」という13節のことばです。
「愚かな者」になるのでなく十字架のキリストを見上げる者に…、と願います。