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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

見せる熱心

2020年07月06日 | 列王記第二

列王記第二 10章1−17節

「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい。」 10章16節

 日曜日の礼拝には、久しぶりに実際に会う方も参加していました。礼拝は神さまに会うところと言われています。そのとおりですが、親しい方といっしょに礼拝ができるのも素晴らしい喜びだと、改めて思いました。

 北王国のヨラム王、ヨラムの義兄弟の南王国のアハズヤ王、そしてヨラムのはハイゼベルを殺したエフーの勢いは止りません。主君亡きあとの北王国の指導者たちにアハブの70人の子どもたちを殺させます。

 エフーの思いは、自分はアハブ家を絶やせという主の命令に従っているとのことでした。それは民に彼が伝えたことばに表れています。エフーのやり方は、乱暴すぎてヒューマニズムからはかけ離れています。しかし同時に、神に背く罪の報酬とはこのように厳しいものなのだということにも思いが至ります。

 気になるのはエフーのことば。「主に対する私の熱心さを見なさい。」主への熱心は誰かに見せるものなのだろうかと、どうしても思うのです。主に忠実であろうとして熱心であることそのものが大切になってしまい、肝心なものが脇に置かれるというようなことです。


主の民イスラエルの王

2020年07月04日 | 列王記第二

列王記第二 9章1−16節

「わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。」 9章6節

 しばらくの間「リモート」で聖書を学んでいた方が昨日は訪ねてくださり、いっしょに聖書を読みました。改めて、実際に会えるのは嬉しいことだと思いました。日本では東京を中心に感染者が増えているとのこと、先が見通せない中での生活がしばらくの間続きます。

 9章に登場するのはエフー。エフーは北王国イスラエルでヨラム王の下にある軍隊の隊長。ここを読むたびに、なぜ神はエフーのような荒々しい人物をアハブ家を断つために選び用いるのだろうか、品行方正で正義感に満ちたヒーローをなぜ立てないのだろうかという疑問が湧いてきます。

 考えうることの一つは、アハブイゼベル夫妻がイスラエルにもたらした悪を主が忌み嫌い、放っておくことができないとして、この二人を倒すためにふさわしいとしてエフーをお選びになったということでしょうか。アハブ家がイスラエルを偶像礼拝に引きずり込み、そればかりか縁戚関係を足がかりにして南王国ユダをも巻き込もうとしていることを、そしてそれゆえに苦しむことが必定のご自分の民をあわれみ、救うために、エフーは立てられたのです。

 エリシャから遣わされて、王となるべくエフーに油を注ぎ、エフーがなすべきことを告げた若者は、自分の務めを果たすと逃げ帰りました。言うべきことを言ったらそこから逃げていくという様子はユーモラスでさえありますが、これをきっかけにエフーは立ち上がります。

 神が選び用いられる人は良い人、正しい人だけではないというのは、聖書の他の箇所にもあります。神の大きさ、私たちが理解できないほどの知恵の深さをここから覚えます。だからと言って選ばれた者は、自分を誇ることはできません。

 神のお役に立つから自分は偉い、などというのはとんでもない錯覚だと気づかされるのです。


ちょうどそこに

2020年07月03日 | 列王記第二

列王記第二 8章

「ちょうどそこに、…王に訴えに来た。」 8章5節

サクランボを摘んできました。一本の大木にたくさんの実がついています。「遠慮しないで採って」とのことばに甘えて、1時間ほどで5キロ以上収穫できました。新鮮なうちにおすそ分けし、残りはジャムにします。ちょうど今、甘い香りが届いているところです。

 自分が信頼する人のことばに従ってみたら、自分の家や畑が他の人のものになってしまったとしたら、どんな思いがするのだろうかと、シュネムの女に起こったことを読んで思いました。この女性が登場するのは4章。彼女は裕福で、神への信仰が篤く、預言者エリシャの働きを支えていたと話は始まります。この間、彼女の信仰は試みられ、成長しました。

 そしてここでも、彼女はエリシャのことばを信じて行動します。ところが結果は思わしいものではありませんでした。そしてこの場面にはエリシャは出てきません。ここで彼女に起こった問題は、直接エリシャに訴えるということによって解決はしません。ある意味で、彼女がエリシャを通してではなく、神から直接の答えを受けるための機会だったのではないかと考えるのです。

 彼女が自分たちの畑と家を取り戻したいとして王に訴え出た時、王はちょうどエリシャのしもべゲハジから彼女のことを聞いていたのです。それを知った王は仰天したに違いありません。ゲハジもそして彼女も驚いたのです。そしてこのことで、彼女とその家族の大きな問題は一気に解決することになったのです。

 私も、これまでの歩みの中に、「ちょうど」という瞬間が何度もあります。運命の出会い、仕事の大きな進展など、自分が計画したり、おぜん立てしたりしたわけではないのに、劇的に物事が解決したということが何度かあったなぁと、ここを読んで思いました。


良い知らせの日なのに

2020年07月02日 | 列王記第二

列王記第二 7章

「今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。…さあ、行こう。」7章9節

 アラムの軍勢に取り囲まれたサマリアは飢餓で苦しんでいました。しかし、神は預言者エリシャによって、驚くようなことが起こると王からの使者に告げます。

 「主のことばを聞きなさい」とエリシャは語るのですが、侍従は信じません。サマリアが置かれている現実を見れば、信じられないようなことばです。しかし、改めてエリシャのことば、「主のことばを聞きなさい」ということばの重さをここからおぼえました。

 エリシャによって語られた主のことばが実現するために用いられたのは、もっとも悲惨な人々、ツァラアトに冒され町の門の入口にいなければならなかった四人でした。どうせ死ぬのならこんなところにいないでアラムの陣営に入り込もう、アラムが生かしてくれれば生きられ、殺すのなら死ぬまでのことだということばに、望みのない者しか語ることのできないものです。

 この彼らのことばに救いとは何かが隠されているように思うのです。望みがないと自覚するから、その先に救いが待っているのです。それを得るために残されているのは信じることのみ…。

 アラムの陣営が空っぽだと知り、彼らは食べたり飲んだりし、宝物類を隠します。余計なことですが、隠したものをあとで四人は取りに行ったのだろうかなどと想像してしまいます。

 散々楽しんだあと、四人ははっと気づきます。「今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている」として、王に知らせに行こうと動くのです。この彼らのことばや行動に、福音を伝える力のようなものをおぼえます。特に「われわれはためらっている」ということばに私自身はっとさせられます。ためらっている場合か…と。


主のことばを待つ

2020年07月01日 | 列王記第二

列王記第二 6章24−32節

「エリシャは自分の家に座っていて…」  6章32節

 7月から当地では、売上税(日本で言えば消費税)が引き下げられます。ここでは軽減税率が適用されて、通常のサービスや商品の購入の場合は19%、食料品などの日用品やホテル代は7%の軽減税率が適用されています。それぞれが16%と5%に年末までの期間限定で引き下げられるのです。コロナ下で経済の底上げを狙ったもののようです。

 国を割って偶像を造り拝んでも、それでも北王国イスラエルは主の選びの中にあります。主はこのイスラエルを見捨てずに、綺羅(きら)星のような預言者たちを遣わされました。そして、時には悪王を助け、時には困窮に苦しむ民を助けられたのです。ですから、このようにひどい状態に陥っていたとしても、北王国に救いの道は備えられていました。

 アラムの包囲によりサマリアは極度の食料難に陥りました。わが子を食べなければならないというのはおぞましい光景。女の訴えを聞いて王は、主がなさるのでなければ助けることができない、と答えます。そのとおりですね。しかし、だからといって王は主に助けを求めようとはしません。

 問題の鉾先を預言者エリシャに向けるのです。エリシャが神に求めてくれないのでこんな状態だから、悪いのはエリシャだ!と、危機の原因を誰かのせいにしています。本来ならば、王自らが悔い改めて、神に祈り求めなければならないのに…。

 エリシャは決してむきになることなく、恐れるでもなく、自分の家に座っていました。そして、次章で事の結末は明らかになるのですが、神は座るエリシャにことばをお授けになりました。それは、驚くような、信じられないような結末。

「エリシャは自分の家に座っていて…」とのことばが心に留まります。何をなすべきなのかを教えてくれることばです。


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