みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

高ぶりは強い者だけでなく…

2024年09月24日 | イザヤ書

イザヤ書 10章

 日本もようやく暑さが去ったとのこと。長い間、本当に大変なことだったと思います。

 この章には、「インマヌエル」の確かな約束を与えられた神に信頼せず、国際関係、勢力図のみで判断したアハズ王をはじめ、ユダ・エルサレムの民に対する厳しいことばが届けられています。しかも彼らは弱い人々を踏みにじっていたのです。

 3節の「訪れの日」とはアッシリアがユダに攻め込む時のことです。その時彼らは、だれに助けを求めるのが正しいことなのかを知らなければならず、ただ知識のみでなく実行しなければなりません。36−37章に、イザヤの預言どおりのことが起こったと記されています。

 5節以降は、ユダに大河ユーフラテスの大水のように押し寄せてくるアッシリアに、神が語られたことばが置かれています。神はアッシリアを「わたしの怒りのむち、わたしの憤りの杖」として用いておられるのです。ここに、人間の企てや思いをはるかに超えた神の大きさを知ることができます。

 彼らはユダを懲らしめるために、神のことばがそのとおりに実現することを世に明らかにするために、アッシリアを道具として用いておられるのです。ところが、アッシリアは大きな心得違いをします。

 それが7節です。8―11節にはアッシリアが高ぶる様子が描かれます。しかし、神によるなら彼らもまた「道具」にすぎません。自分の力でやった、われわれは強い、だから偉い、神のようだというようにアッシリアに限らず、時を超えてこの世の大国や独裁者と呼ばれる人々はこのように考えます。

 いいえ、そんな力などないと考える私たちにも、「自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ」というような思いが湧いてくることがあります。高ぶりは強い者だけが持つのではないのです。


不思議な助言者

2024年09月23日 | イザヤ書

イザヤ書 9章

 土日、ストラスブールとチューリッヒでの礼拝に出席しました。このような時には、なかなか歩く時間を取りにくいので、日曜日の午前泊めていただいたお宅の近くを1時間ほどウォーキング。アルプスは雲に隠れて望めませんでしたが、山の中腹の赤色のベンチに座り、少し秋の装いをし始めた木々を楽しむことができました。

 きょうの「みことばの光」が書くように、9章はクリスマスの季節に教会で読まれることの多い箇所です。6節の「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる」は、イザヤの時から700年ほどの地に誕生したイエスについての預言として知られています。

 それでは、どのような時に神はイザヤによって、男の子の誕生を約束されたのでしょうか。深い闇の中であったことを8章19−22節、9章1節から知ることができます。

 闇とは、外敵の脅威が迫るということなのでしょうか。土曜に書きましたが、この頃イスラエルははるか東の大国アッシリアの脅威にさらされていました。

 そのような脅威に際して、彼らは神のことばをこそ聴くべきでした。しかしそうではなく、死んだ者を呼び出して尋ねるようなことをしていた、それが闇をさらに深いものにしていたことが、8章後半を読むと分かります。

 9章の1−7節は、そのような中での「大どんでん返し」というべき約束です。どんなに深い闇をも光が追い払います。2節は追い払う光の出現についての約束です。それが人々を全く変えるのです。戦いに明け暮れていた者たちに平和が訪れ、喜ぶに満ちあふれます。

 イザヤにとって届けられた神の約束を当時の人々はどのように受け止めたのかが、章の後半に描かれます。それは「不信仰」ということばにまとめることができると思います。13節に「しかし、この民は自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めない」とあります。

 6節の「不思議な助言者」とのことばに目を留めました。神の民が神のことばに聴こうとしないならば、どんなに兵力を増強し同盟関係を強固にしても、本当の強さには結びつかないのだと……。


インマヌエル

2024年09月21日 | イザヤ書

イザヤ書 7章

 金曜日は月一度行われる家庭での聖書の会。昨日はルカ14章をいっしょに読みました。さまざまな感想が意見が出て活発な時でした。

 ところで、この家庭集会には私たちも含めて電車やバスを用いるのですが、乗るはずの電車もいわゆる「間引かれた」ので、別のルート使いました。乗り換えの電車にちょうどのタイミングで乗ることができたのですが、車内のモニタで確認すると、なんと50分近くも遅れていました。当地の鉄道はどうなっているのだろうかと、またまた思う時でした。

 イザヤ書7章は「インマヌエル預言」として知られています。インマヌエルとは「神が私たちとともにおられる」という意味です。そして、このことばは新約聖書マタイの福音書1章23節に、いいなずけの妻マリアの胎に男の子が宿ったのはイザヤ書7章の預言が成就したのだという神の使いのことばにあります。

 この預言は、紀元前700年代の後期南王国ユダのアハズ王にイザヤを通して届けられました。この時、アハズは大きな恐れの中にありました。2節に恐れの理由が明らかにされています。「アラムがエフライムと組んだ」との知らせでした。当時の超大国は東方のアッシリア。アッシリアの侵攻に備えて、エフライム(北王国イスラエル)とアラム(シリア)が手を組んだのです。

 エフライムはユダにもこの同盟に入るよう圧力をかけたのですが、ユダのアハズ王はアッシリアと組むことで北にある二つの国の圧力をはねのけ、さらにはアッシリアが攻め込んでこないはずと、考えました。

 しかし、主はイザヤによって、ユダ王国は北の二つの国から攻め込まれることはないとの約束を届け、しるしを約束し、信じるようにとアハズに迫ったのですが、彼は神に信頼しないであくまでもアッシリアに頼ろうとするのです。

 アハズが信じなかった、求めなかったそのしるしが「インマヌエル」なのです。「神がともにおられる」からアッシリアに頼るなとのメッセージを信じることができませんでした。

 何事かが自分の身の回りに起こった時、「神が私たちとともにおられる」という確かな約束のうえに立つことができのが真の幸いなのです。


遣わしてください

2024年09月20日 | イザヤ書

イザヤ書 6章

 癌を患っておられた方が、昨日神のみもとに召されたとの知らせが届きました。ある期間「みことばの光」の編集を一緒にさせていただき、ことばの美しさや重さを教えていただきました。神にある平安と慰めとが残されたご家族、そして教会にあるようにと祈ります。

 この章は、イザヤが預言者として神からの召命を賜わる箇所です。それはウジヤ王が死んだ年だったとありますので、紀元前740年のことです。ウジヤがなぜ死んだかについては、歴代誌第二26章に記されています。彼は王としての功績を挙げたのですが、本来祭司がすべき香を焚くということを、祭司の制止にもかかわらず行ったことゆえに、ツァラアトに冒され、死んでいきました。

 そのような背景の中で、イザヤがまず見たものは神の聖なる臨在でした。その時、イザヤが語ったのが5節。神の聖さの前に自分の汚れを知らされ、彼は滅びるしかないと絶望しました。神の前に人は自分の罪をいやでも知らされるのです。

 しかし、神はイザヤの罪を赦してくださいます。「唇の汚れた者」だと絶望したイザヤに、セラフィムは火ばさみで燃え盛る炭を取り、イザヤの口に触れたのです。罪が赦されたイザヤを、神は民のところに遣わされます。神のことばをその口で民に伝える預言者としての務めです。

 イザヤは「ここにわたしがおります。わたしを遣わしてください」と言いました。神の前での汚れにおののく彼が、罪を赦されて志したのは、「遣わしてください」ということでした。神が罪を赦すというのは、赦された者をご自分のために用いるためなのだということを、ここから改めて教えられます。

 しかし、その務めは簡単なものではありません。民がイザヤのことばを歓迎しないことを神は予め伝えられました。それでも彼は語ります。神が彼に幻を見せ、ことばを与えるかぎり…。


わざわいだ

2024年09月19日 | イザヤ書

イザヤ書 5章

 今週末にかけていろいろと準備すべきことがあり、室内ウォーキングで済まそうと思いましたが、バターを買いに行くということで、やはり外歩きをすることにしました。街路樹沿いの野薔薇(ばら)の盛りは過ぎましたが、まだ小さな花が咲いています。薔薇は長い間楽しませてくれるのですね。

 5章では、エルサレム・ユダに住む人々をぶどう畑にたとえ、収穫の時が来ても酸いぶどうができてしまったとして、主が彼らの悪行を一つ一つ挙げていかれます。

 3ー4節に目を留めます。主は彼らに、ぶどう畑の世話に何か落ち度があったのかと問うておられます。その問いかけの答えは分かりきっています。主はぶどう園の持ち主として為すべきことをしたのです。そこで主は、ぶどう畑を荒れ果てたままにすると言われます。これは、エルサレム・ユダが外敵の侵入によって荒らされる様子を語っています。

 7節はこのたとえの結論。ここでは、公正と流血、正義と悲鳴が対比されます。8節以降は、「わざわいだ」が繰り返されて彼らが流血と悲鳴という結論に至った悪事が暴かれていきます。

 隠れて行った巧みな悪事も、主の目にはすべて明らかなのだというのが、だれもが知るべき事実だと思います。「わざわいだ」に導かれてのさまざまな悪事、この中に人間が乗り越え解決できたものは一つもないということを、知らされます。

 「進化」ということばがさまざまな面で用いられています。新しいスマホには、AIが組み込まれているので長い文章を自分で要約する必要はない、自分がうまく表現できないことばを、並べるだけできちんとした文章にしてくれる、これは大きな進化だ! といった具体ですね。

 しかし、人の心は美しく常に善きこと、まっすぐなこと、愛することにのみ整えられているとは言い切ることはできないのだということを、「わざわいだ」の繰り返しから考えます。


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