イザヤ書 10章
日本もようやく暑さが去ったとのこと。長い間、本当に大変なことだったと思います。
この章には、「インマヌエル」の確かな約束を与えられた神に信頼せず、国際関係、勢力図のみで判断したアハズ王をはじめ、ユダ・エルサレムの民に対する厳しいことばが届けられています。しかも彼らは弱い人々を踏みにじっていたのです。
3節の「訪れの日」とはアッシリアがユダに攻め込む時のことです。その時彼らは、だれに助けを求めるのが正しいことなのかを知らなければならず、ただ知識のみでなく実行しなければなりません。36−37章に、イザヤの預言どおりのことが起こったと記されています。
5節以降は、ユダに大河ユーフラテスの大水のように押し寄せてくるアッシリアに、神が語られたことばが置かれています。神はアッシリアを「わたしの怒りのむち、わたしの憤りの杖」として用いておられるのです。ここに、人間の企てや思いをはるかに超えた神の大きさを知ることができます。
彼らはユダを懲らしめるために、神のことばがそのとおりに実現することを世に明らかにするために、アッシリアを道具として用いておられるのです。ところが、アッシリアは大きな心得違いをします。
それが7節です。8―11節にはアッシリアが高ぶる様子が描かれます。しかし、神によるなら彼らもまた「道具」にすぎません。自分の力でやった、われわれは強い、だから偉い、神のようだというようにアッシリアに限らず、時を超えてこの世の大国や独裁者と呼ばれる人々はこのように考えます。
いいえ、そんな力などないと考える私たちにも、「自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ」というような思いが湧いてくることがあります。高ぶりは強い者だけが持つのではないのです。