みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わが巌、わが砦、わが救い主よ

2024年08月26日 | サムエル記第二

サムエル記第二 22章1−25節

 日曜日の礼拝に、日本で宣教師をしておられるご家族が来てくださいました。宣教が困難だと考えられている日本で、さまざまな機会を捉えて福音を届ける働きが続けられていることを知りました。

 サムエル記第二21−24章は、この書ではいわゆる「補遺」に当たります。 しかしそれは、著者が書き足りなかったことを書き足したものということではなく、サムエル記が何を描いているのかをまとめたと考えられます。

 この部分は、内容的には、始めと終わりにはサウルとダビデの罪が、その内側にダビデの勇士たちの名前、そして内側に神への賛美が置かれています。つまり、A―B―C―C1―B1―A1という構造なのです。

 この文章構造を眺めて、私はこれはそのまま私たちの人生を語っていると思いました。外側の私はじつは神を悲しませ、怒らせるようなことをする者であり、そんな私をたくさんの人々が助けてくれる、そして、すべては神がなさることであるので神がほめたたえられるのです。

 今日の箇所は神への賛美です。この詩は詩篇18篇とほとんど同じです。しかし、サムエル記を読み終えようとしている時にこの詩を味わうことによって、特に表題によって、ダビデがどのような思いでサウルから逃れに逃れたのかを思うのです。

 出だしのことばは、神が巌であり、砦であり、救い主だとあります。ここで目を留めるのは、その一つ一つに「わが」がつけられていることです。それはつまりダビデがどんなに強い守りを、救いを必要としていたかを語っています。

 7節以降の主語の多くは「主は…」です。それは自分の無力さと敵の手強さを前提にしています。どんなに相手も強力で恐ろしくても、主は私を守り、助け、救い出してくださいます。

 21−25節に目が留まります。それは、これほど主が私のために良きことを行ってくださることへの、ダビデの応答です。私たちの歩みは主が良くしてくださったことを忘れずに、それを自分の生き方で表すということなのだと、教えられます。


よこしまな者

2024年08月24日 | サムエル記第二

サムエル記第二 20章

 久しぶりに行った電器店で、現金で精算しようとして小銭を求められましたので、財布のコインをすべて広げて、必要分を取ってもらいました。レジの方もニコニコ対応してくださいます。老人ゆえでしょうね。

 本章には、ダビデ王をめぐってのさまざまな思惑が入り交じっている様子が描かれています。ダビデが出たユダ部族と他の部族(ここではイスラエルの人々と呼ばれます)との綱引き、そのような中で、シェバがダビデを罵り、人々の関心を引こうとします。

 1節ではシェバのことを「よこしまな者」と描いています。前半の第一サムエル2章12節では、祭司エリの子どもたちをよこしまだ書いています。そしてそこには「主を知らなかった」と加えられています。さらに「力づくで取る」ということばも見られます。

 シェバはサウル家を慕う者の一人です。彼はサウル家から王位を奪い取ったダビデを、ただただ恨むのです。祭司エリの子どもたちのように力づくで自分のものとするということはしないのですが、彼のよこしまさとは、神を認めることなく、人と人との力関係ですべてが起こると考えていたということではないでしょうか。

 シェバの主張は独りよがりのものでしたが、ダビデのエルサレム期間を巡って不満を募らせていたユダ以外のイスラエルの共感を得たのです。イスラエルは大きな分裂の危機を抱えていました。

 それに加えて、ダビデのために尽力したヨアブの存在はダビデにとって不気味なものがありました。アブサロム側の軍責任者アマサを赦すばかりか、ヨアブに代えて軍の長として迎えたのは、ヨアブへの警戒感があったからです。しかし、そのアマサはヨアブによって消されます。

 ヨアブはこれまでに、サウル側のアブネルを殺し、謀反の張本人アブサロムを殺し、そして今アマサを殺します。さらには、シェバが殺されるという出来事にもヨアブが絡(から)みます。ヨアブはダビデに反乱するのを画策しているどころかむしろ正反対なのですが、冷酷なヨアブをダビデは恐れ、自分では制御できなくなっていました。

 人と人とがさまざまな思惑を抱いてうごめくことだけに目を奪われていると、神の御手のわざが見えにくくなってしまうのです。自分がよこしまな者でないようにと自戒します。


彼が全部取っても…

2024年08月23日 | サムエル記第二

サムエル記第二 19章24−43節

 昨日はティーンズの皆さんを迎えました。お昼はピザと唐揚げがメイン。ピザはちょっと焼き過ぎでしたが、みんなでトッピングしたのでとても美味しくいただきました。

 アブサロムに追われてエルサレムを出たダビデ王は、再びエルサレムを戻ろうとして、マハナイムからヨルダン川のほとりまでやって来ました。本章は、ダビデをめぐる人間関係がエルサレム帰還に際して「整理される」ような箇所です。

 メフィボシェテがダビデを迎えにエルサレムから下って来ました。その体裁は彼がダビデのことをひたすらに心配していたことを物語っています。

 「あなたはなぜ、私とともに来なかったのか」のかとダビデが問うた時、メフィボシェテは「家来が私をたぶらかしたのです」、「彼がこのしもべのことを王様に中傷したのです」と答えました。この答えには彼の悔しさがにじみ出ています。

 「家来」、「彼」とは、エルサレムから逃れるダビデのためにろばや食べ物で迎えたツィバのことです。ダビデは「メフィボシェテがダビデの失墜を喜び王位を待ち望んでいる」というツィバのことばを信じてしまいました。

 しかし、目の前にいるメフィボシェテの姿から、ダビデはツィバのことばが偽りだということに気づきます。29節はなんとも歯切れの悪いダビデのことばだろうかと思います。メフィボシェテの訴えをさえぎるように、ツィバの悪口をこれ以上言うなとでも諌めているかのようにも響きます。

 それはツィバの賢さ、抜け目のなさにダビデの心が動かされていたからです。17―18節には、メフィボシェテに先んじてツィバが家族総出で丁重にダビデを迎えた様子が描かれています。

 しかしメフィボシェテは、ダビデの裁定に不満を漏らすことはありませんでした。「彼が全部取ってもかまいません」というメフィボシェテのことばから、彼が心からダビデの生還を喜んでいる様子が伝わってきます。ダビデの真の友が誰なのかは明らかです。

 心から隣人の存在を喜ぶことができるようでありたいと願うものです。


憎む者を愛し

2024年08月22日 | サムエル記第二

サムエル記第二 19章1−23節

 当地の日本人学校も昨日から新学期が始まりました。近くの公園を歩いていたら、教会の朗読劇に参加している子どもたちとばったり。妻をその子の友だちが「きみのおばあちゃん?」と尋ねていました。もちろん答えは「違うよ」でしたが、私たちは小声で「そんなものだね」とつぶやいたのがおもしろかったです。

 この章は、アブサロムの謀反と死によって分断されてしまったこの国を、ダビデがどのようにして再び一つにするのかが描かれています。

 目に留まるのは、わが子アブサロムを失ったダビデの悲しみが大きすぎて、勝利がすべての兵士たちの嘆きとなったという2節のことばです。この時ダビデは、自分がイスラエルの王であるという立場をまるで忘れたかのようでした。

 王がわが子の死をなりふり構わず嘆き悲しみ続けているのを、ダビデのために戦った兵たちはぐっと我慢しているという、本来ならばありえないことがここには起こっています。

 ですから、ヨアブはダビデに厳しく進言します。ヨアブのことばはもっとも。いつまでも謀反の張本人の死を嘆き悲しんでいるのなら、兵士や人々の信頼をダビデは得られなくなり、この国は本当にバラバラになってしまうと、ヨアブは懸念しました。ダビデにとって、厳しいことばです。

 しかし、もっともらしいヨアブの一つ一つのことばは事実を語っているのだろうかとも思います。6節の「あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎む」とヨアブは言い切っていますが、ダビデをアブサロムは憎んでいたのでしょうか。あるいはダビデは自分のために辛苦をともにした人々を憎んでいたのでしょうか。しかし、事実ではないけれども反論はできないというのが、この時のダビデでした。結果的にヨアブの進言のとおりにダビデは動き、それによって物事は動いていきます。

 同時に、ヨアブのことばは、神の私たちへの姿勢を伝える預言的なものだったということにも気づかされます。神こそ「あなたを憎む者を愛する」お方であり、御子イエスの十字架によってそのことが証しされたのです。


吉報を待つ王

2024年08月21日 | サムエル記第二

サムエル記第二 18章19−33節

 あるご家庭で子ども集会をしました。よく知られた主イエスのたとえ話を取り上げましたが、次々に刺激的な反応…。読み慣れた箇所ですので、こうあるべきという考えをいつの間にか持っていたことを、子どもたちの質問や意見などによって気づかされる貴重な時間でした。

 謀反を起こしたアブサロムたちに勝利したダビデ側。ダビデは前線からもたらされる知らせを待っていました。しかし、ダビデが待っていた「吉報」とは、わが子アブサロムが無事であること。謀反の張本人が無事だということは、本来ならば吉報どころか憂慮すべき知らせです。

 ダビデがアブサロムの死を知ったならどんなに嘆き悲しむかを知っていたヨアブは、良い知らせを届けるはずだとダビデが信じているアヒマアツではなく、異邦人であるクシュ人を伝令とします。クシュ人ならば思い入れを持たず、客観的かつ冷静に戦果をダビデに知らせるからというのが理由だと思います。

 先にダビデのところに着いたアヒマアツは、自軍の勝利を告げました。しかし、この時のダビデの関心はわが子が無事かどうかしかありません。アヒマアツにも、その後に到着するクシュ人にも、ダビデは「若者アブサロム」は無事かと尋ねます。それがダビデにとっての「吉報」でした。

 その問いかけに、アヒマアツはことばを濁すことしかできません。クシュ人からアブサロムの死を知らされたダビデは、人前もはばからずに号泣しながらアブサロムの名を呼び続けるのです。

 「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに、アブサロム。わが子よ、わが子よ」という33節のことばは、読む者の胸に突き刺さります。

 代わってあげられたらと、世の親たちはわが子の窮状を、そして死をそう受け止めるのです。


2011-2024 © Hiroshi Yabuki