お別れの言葉
お別れに際し一言感謝の言葉を添えて、不肖の息子の最後の親孝行とさせて頂きます。
思い起こせば、3人の子供達が小学生当時、サラリーマンだった父が病気で倒れ、女手ひとつで
家族の生活を支える大変な時代が長く続きました。
当時、田植えや稲刈りは人手頼みの時代で、近くの農家を手伝って手間賃を稼ぐと共に、実家から
借りた田畑を耕し家族の食糧を確保するという文字通り血と汗と涙の日々でした。
そんな厳しい環境下にも関わらず子供達は病気や怪我もなく健康そのもので育ち、揃って齢80に
なろうとしていることに大感謝です。
もう一つの感謝は、人生100年時代を象徴するかのように102歳という長寿を全うしてくれた
ことです。
それは子供達に「人生は未だこれから」という大きな希望と勇気を与えてくれました。
30年前、父が危篤状態で医者から「今夜が山」と言われ、徹夜で見守ったことがありました。
交代で何度も病室の心電図を覗き込みながら廊下で「まだのようだ」を繰り返していました。
意識不明の危篤状態のときに「ヒソヒソ話しは良く伝わる」らしく、父はイヤガラセでもするかの
ように、翌朝、二人が家に帰って間もなく息を引き取ったのでした。
その時オフクロサンは「10年も看病をさせて置きながら付き添っていない時に息を引き取る
なんて・・・」と嘆き悲しんだのでした。
しかし、「埼玉から駆け付けた娘の到着を待って息を引き取った」というのが父の真意だったと
思われます。
30年振りの父との再会に際し、最初にそのことを確認し、天国でも夫婦仲良く暮らすことを
願って止みません。
令和7年4月23日 熊谷良輝
経済的には苦労されましたが、親孝行な子供達に
恵まれて心は豊かだったことでしょう。
遺影からも幸せそうな様子がうかがえます。
それでも、気丈にふるまい義兄が東京で暮らしていたため、古くて大きな家を一人で守っていたのでした。
長生きできたのは持ち前の好奇心と向上心によるものと思われました。
65歳で越後駒ケ岳に一緒に登り、77歳喜寿の祝いには浅草岳に登りました。
いずれにせよ、長命を得る方は何か持っているものが違うように感じられて仕方ありません。
母上のご逝去に哀悼の意を表させて頂きます。合掌。
コメントありがとうございます。
残念ながら、母が一人で農作業をしているのを横目
で見ながら手伝いもせずにいる親不孝な子供達でし
た。
そのことを「お別れの言葉」でお詫びしたいと思い
ましたが、長くなるので止めました。
コメントありがとうございます。
育った環境に不満なしではありませんでしたが、
「無事之名馬」に尽きます。