細川重賢公が家督をされた砌、能太夫を召し寄せられ伝授を受けられたという。「翁」まで相済、ご自身も「翁」を舞われ、家中の者を召し寄せて見物をいたされた時、小林半太夫という用人は見物に出なかったという。
たびたび使いが出されたがとうとう出てこなかった。御能が済んだ頃になり漸くまかり出た。
上役でもあろうか、なぜ遅くなったのかと問うたところ半太夫は次のように答えている。
先代様のご不幸からいまだ遠からず、また、数十年の困窮で皆々が不安の中に憂いている中、御能を拝見する気分にはありません。
今回の御行跡は甚だ以て心得がたく思います。折々の御慰めには苦しからざる事ですけれど、毎度の御能、その上御伝授の事は、何の御用に立ちましょうか。
自分としては、何の面目があるのか、拝見してご機嫌に合うようなご挨拶を申し上げることは甚だ心外の事です。
この事を聞かれた重賢公は、「殊の外おあやまり」なさって、以後きっと改めると半太夫をお褒めになり、その後は御能の事は沙汰やみになったという。
重賢公の時代には、こういった有能の士が多く輩出した。諫言を受け入れ、これらの人材を重用した重賢公の度量の大きさにも感心する。
■小林半大夫一明(幼名・甚右衛門)八百石
御物奉行御番方触頭御中小姓頭 屋敷・内坪井
元文三年七月(着座)~延享元年九月 小姓頭
延享元年九月~宝暦元年一月 用人