津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■シラフヒゲカミキリ・・?

2021-06-24 13:20:08 | 徒然

             

 私が住むAPは、最近所有者も不動産業者も変わり、外装タイルの清掃などが始まった。いわゆる高圧噴射で洗おうというわけである。
どこかにいたシラフヒゲカミキリ虫が緊急避難をしたのだろう、散歩から帰る際階段の所で発見した。
名前も間違いないと思うが、まだグーグルレンズをインストールしていないので確答ではないが??
体長も30㎜そこそこで最近生まれたのだろう。捕まえて持ち帰って、ベランダの植物の上に置いてみた。
まずは写真撮影、羽をばたつかせるが飛び立てない。ダメージを受けているのかもしれないが、しばらく観察してみることにする。

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■本気になって調べずばなるまい

2021-06-24 08:55:42 | 先祖附

 先に「熊本所縁の京都人」さまから、ブログの記事「姓の読みについて」にコメントをいただいた。感謝申し上げる。
細川藩士に余田氏があり、祖母の実家と関りがありながら読みが判らず、父の従兄妹に尋ね「よでん氏」であることが判った。
播磨屋さんの「武家家伝_丹波余田氏」によると、丹波の余田谷を出自としているらしいが、大方が帰農したとされている。細川家とのかかわりもよくわからない。

祖母は狩野家から嫁いできているが、父・源太郎の生母が余田氏である。
余田家は二家あるがどちらとつながっているのかがわからずに来た。父の従兄妹に尋ねておくべきであったと悔やまれてならないが、後の祭りである。
今回のコメントは「余田(正規)家は、狩野君山(直喜)の母の実家に当たります」とあった。
曽祖父(祖母の父)は源太郎、直喜はその弟であり、その生母が余田正規家の流れらしいことが判明した。
少々ほったらかし気味であった余田家について、この機会に本気になって調べずばなるまいと思っている。

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■季節を知るすべ

2021-06-23 13:49:40 | 徒然

 日の出とともに玄関のドアスコープが輝きだす。
そしてドアスコープを通した光が、反対側の白い壁に七色の像を浮かび上がらせる。
今年も像を結んだと少々興奮してしまうが、それがちょうど夏至前後に当たる。

  一昨年は、6月17日に 一瞬の奇跡
  昨年は、6月22日に  日蝕から14時間目  を書いたが、この現象は一週間くらいの巾がある。

気づいて今年で三年目、地震後緊急避難的に現在のAPに入居したが、よる年波でなかなか今一度の引っ越しに踏み切れない。
本の荷造りなんて業者の人もやってくれないのではないか?
しかし、こんな不思議な現象が起こると、捨てがたい愛着が出てくる。季節の移ろいを知るすべとなっている。
来年はいつから始まり、いつ終わるのかを観察しようと思っている。

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■有吉家文書解説「御着座之式」‐ 2

2021-06-22 17:45:20 | 先祖附

 一、夫より御用人猶案内有之、不老人門御杉戸外之六枚屏風之外ニ南御敷居際ニ脱剣、尤御一門衆一所三家同、其外同
   右之通段々ニ抜置御杉戸御敷居外ニ而御辞儀 陽春御居間之御敷居内ニ御左頭ニ南西之様打廻候、擦入平伏仕居相揃
   一同ニ御辞儀御一ト通り被為在御意御手熨斗御古のし被下候間、頂戴之仕左へ開半已上ハ南御入側板敷伝退去半以
   下ハ直ニ次之御間之様ニ退去 元之御杉戸 口之様ニ引取竹之御間ニハ御近習一手坐着いたし居候得共、出入二致会
   尺ニ不及直ニ帯剣且且詰間江参候事
     それより猶ご用人より案内があり、不老人門御杉戸の外の六枚屏風の外に南御敷居際に脱剣し、御一門衆一所に、三家老家も同様に右の通
     り段々に抜き置き、御杉戸御敷居外にてお辞儀、陽春御居間の御敷居内に御左頭ニ南西の様に打廻ること、擦入って平伏し相揃って一同に
     御辞儀一ト通りご挨拶があり、お手から熨斗御古のし下さる、これを頂戴し左へ開き、半已上ハ南御入側板敷を伝い退去、半以下ハ直ニ次
     の御間の様に退去、元の御杉戸 口の様に引取り、竹の御間には御近習一手坐着しているが、出入に会尺はするに及ばず、直に剣をつけ詰間
     へ参ること

     但御居間御敷居外ニて平伏仕居候時、是江と御意も被為在候得共、大勢一同ニ罷出候間御意を伺居候而者、
     被遊御待候間帳口ニて之人江随、且々御同間へ摺入候、且又御杉戸ハ始ニ御用人より明、皆罷出候跡御用人
     よりセキ置候得ハ御前より退却之節御一門衆より明被申尤引取候節末席より跡せき致すに不及候事
                     御居間の敷居の外で平伏している時、こちらに入るようにとの仰せがある事があれども、大勢が一堂にまかり出て仰せを伺うに付いて
       は、御待ちになっておられるので、帳口にて人に随いかつがつ同お間へ摺り入り、お杉戸は初めに用人が明け、皆がまかり出た後用人
       がせき(閉め)置くので、御前から退出の時には御一門衆から明けられ、引き取る時末席の者は跡せき(熊本弁)
するには及ばない事 
 一、御備頭御留守居大頭其外例之御役人詰間江罷出、今日ハ佐野之御間ニてハなし 御用番江謁候事 御備頭大頭ハ嘉
   永五年之節より佐野之御間ニて謁を受候ニ究
     御備頭・御留守居大頭その外の例の御役人詰間へ罷り出、今日は佐野之御間ではなく、御用番へ謁する事、御備頭・大頭は嘉永五年之の節
     より佐野の御間にて謁を受けることに究る

     但御備頭之内二人ハ壱里山江罷出候へとも御殿江者三人一同ニ罷出謁有之候事
      但し御備頭の内二人は壱里山(不詳)へ罷出    候へとも御殿江者三人一同ニ罷出謁有之候事
 一、御供之御小姓頭御奉行御用人御目附 詰間江出方有之候事
    御供の御小姓頭・御奉行・御用人・御目附 詰間へ出方があること
     但右御用人江者御隠居様若殿様江戸京都 上々様御意傳有之候得共、例之通御一門衆初於詰間奉窺直ニ其人
     江御禮申上候、右者前以様子不相替候間廻文等無之其身より申出候て相成候事
      右の御用人へは御隠居様・若殿様・江戸京都および上々様への御意を伝えて有るけれ共、例の通、御一門衆初め詰間において直に其人
       へ伺い御禮を申上る事、これは前以て様子が替らないので廻文等は無く、其身より申出ること

 一、闕席之面々并隠居より之使者差出ニ相成候間、例之通御用番江於口間謁を受候事
    欠席の人々また隠居よりの使者を差し出すことについては、例の通り御用番へ口の間に於いて謁を受けること
 一、右使者差出候稜付例之通上文箱ニ入、坊主江持せ御用人江遣候事
    この使者を差し出すについては例の通り文箱に入れて、坊主にもたせ用人へ遣わすこと
 一、夕八時暮候上御一門衆同席中猶又中柱御間江罷出御用人江奉伺御機嫌左候而御用を聞退出候事
    夕方八つ時(?)暮れた上で、御一門衆・同席中なお又中柱の間へまかり出て用人へご機嫌伺い、そして御用を聞いて退出すること
 一、御着坐之即日江戸江之雇飛脚小倉路ニ十四時中國路七日東海道六日限ニて被差立候、尤御用済置候へハ翌日ニ相成
   候事
     ご到着のその日に江戸の雇飛脚は小倉路を二十四時(?)、中国路を七日、東海道を六日を限りに出発、もっとも御用が済んでおれば翌日
     になること

     但右之通可被仰付哉之書付御奉行より御用番江相伺候間其通及指図候事
      右の通りに仰せつけられるについての書付はお奉行より御用番へ伺いその通りに指図あること
 一、当年御手当請持之書付御用番より御用人を以差上候事
    当年の御手当の受け持ちの書付は御用番より用人をもって差し上げらること  
     但毎御着坐之即日差上候事
      但し、毎回お着座の即日に差し上げらる事     
 一、杭場御目見之儀者御発駕之通りニ候、尤御物頭列以上麻上下着御花畑江出仕御郡代已下組ニ不入御中小姓迄ハ御目
   見ニ罷出候着服之侭ニて御家老御中老廻り有之候事
               杭場(お迎えの指定場所)でお目見することは御発駕の時と同様である、御物頭列以上麻上下(裃)を着けお花畑へ出仕し、御郡代以下組
     に入らぬ御中小姓まではお目見に罷り出た時の服装のままにてご家老・お中老廻りがあること

     但御家督初而之節ハ麻上下ニて候之事
      ご家督後初めての時は麻上下にてのこと
 一、御中老以上直隠居之面々江者御着座即日御尋として御用人より奉札仕出有之候、左候得ハ御請返書相済候上当番之
   御用人宅へ御礼として使者麻上下着差出候事
     御中老以上直に隠居の人たちにはお着座のその日に、お尋ねとして用人より札を仕出し奉ることがある、そうすれば御受けの返書を済ませ
     て、
番の用人宅へお礼として麻上下の使者を差し出すこと
                      
                (了)

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■1,980円という贅沢

2021-06-22 06:27:28 | 色・いろいろ

                                                                                   

 私はあまり人が持たないと思う「MUNELL BOOK OF COLOR」とか、大日本インキ化学の「日本の伝統色」そして「日本の伝統色・色名辞典」などという物を持っている。
時折眺めては、日本人で良かったとしみじみ思うのである。
一斤染(いっこんぞめ)、路考茶、刈安、海松、麴塵(きくじん)、瓶覗、納戸、新橋などなど・・・名前の由来とその背景を知るだけでも、古の人たちのなんと心豊かであった事だろうと思うのである。
このような色は、ただ色見本長の中に存在するのではなく、私たちの身近にあるのを気が付いていないだけの話である。
ソフトカバーという手軽さと、1,980円(税込み)という値段でこの写真集を手にして贅沢が味わえればいうことなし・・・
俳句が添えられているのが何ともうれしい。

  内容紹介

  日本には、目の醒めるような色がある!「第3回写真出版賞」大賞受賞作。空の色、風の色、雲の色、水の色、草木の色……。
  景勝地、日光の季節がうつろう105点の写真と、それぞれの風景のなかに浮かび上がる日本の伝統色105点を掲載した、色の図鑑。
  古来、日本人が自然の中から生み出し、染色技術の発展とともに育んできた多くの色は、桜色(さくらいろ)、茜色(あかねいろ)、
  萌黄色(もえぎいろ)のように身近な植物から生まれ、いまも私たちの暮らしのなかに息づいています。さらにこの国には、思色(お
  もいいろ)、椋実色(むくみのいろ)、掻練(かいねり)といった、あまり知られていない繊細でゆかしいあまたな色があふれています。
  そうした伝統色と色名のゆかしさを、写真に添えて紹介。
  著者による色の解説や、著者自ら詠んだ俳句も掲載し、詩人・永方佑樹の詩も寄り添った、贅沢な仕上がりの一冊です。

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■半夏生という夏

2021-06-21 16:51:08 | 徒然

 熊本の今日の日の出は5時09分、眠りが浅くて何度も目が覚める私は、4時過ぎころからやや明るさが増してくると、もう起きようかとべっどの中で何度も寝返りを打ちながら時間を過ごしている。
時計を眺めつつ、起床時間はいつも6時前後である。あまり早起きをして、ごそごそやりだすと奥方の機嫌を損ねてしまう恐れがおおいにある。
6時はすっかり明るい。カーテンを開け、サッシュを開けて部屋に新鮮な風を入れる。
PCをひらいてメールをチェック、気になるニュースを読んだりしていると奥方が起きだして朝食を作り始める。
ものの10分もすれば我が家の朝食は準備が整う。
もう長いこと朝食は、季節の果物とヨーグルトのみである。だから片付けも簡単である。
私はまたPCの前に陣取り、ブログをUPしたり、新たなストックの為のブログを書いたりする。
あまり暑くならないうちにと、9時・10時には散歩に出かける。今日はAコース3.4キロ、木陰を選びながらコース選びを考えるのだが、半分ほどはもろに太陽に照らされて、半そでシャツで出かけると日焼けがこわい。

 今日は夏至、日中の時間が一番長い日で、熊本の日の入りは19時28分、昔の人は夜の時間が短くて睡眠時間も短かったろうにと思うとお気の毒である。
私はといえばほぼほぼ8時間、夜10時前になると眠くて仕方がない。
これが老いたということかと、しみじみ実感している。
「半夏生にはタコを食べる」という習慣があるところがある。奥方に話したら「知らない」という。
なんとなくタコを食べたいというリクエストをしたつもりだが、スルーされてしまった。

 7~8年前、「古文書を読む会」の会場であったあるお寺様の前庭に、葉っぱが半分ほど白粉を吹いたような奇妙な植物を発見、Hさんが「これが半夏生ですたい」とご教示いただいた。
「何のために」と思わせる不思議な植物だが、あとにも先にもたった一度拝見した植物である。
半夏生とは季節を表す言葉でもあり、植物の名前である。

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■有吉家文書解説「御着座之式」‐1

2021-06-21 11:50:01 | 史料

 十数年ばかり前、熊本史談会では有吉家文書「」を一年以上かけて勉強してきた。
これは御三卿家老有吉家の御子孫から提供された初出の貴重な資料であった。12編からなり、種々の御規式の大変面倒な決まりごとが記載されており、これは有吉家の手控えであったのだろう。
いま改めて眺めてみると、当時の私の勉強がいささかいい加減であったことを自覚するばかりである。
ここに改めて取り上げ、少々の解説を試みたいと思う。
まずは、参勤から帰国された藩主が、花畑邸に到着された日の「御着座之式」から始めたい。

    ○御着座之式
 一、大津 御発駕之御注進ニ而麻上下着出仕之事
    大津から御発駕の注進が到着したところで麻裃を着して出仕

 一、御注進左之通
    御立 大津 四里木 三里木 二里木 壱里木 龍田口構 観音坂 慶宅坂
    注進はそれぞれの場所からお立ち以後、以上の場所から順次発し、慶宅坂を最後とする  参考:人の道マップ
 一、御迎二参候人昨日於大津御意之趣御着座前於詰間御一門衆 同席中三家嫡子申達 例之面々江者口之間ニおいて申達
   御意之趣稜付御用番差出、右御意之御礼ハ当番之御用人を口之間呼申達候事
    お迎えに参った人は昨日の大津での御意の趣を、殿様ご着座の前に詰め間において御一門中・同席中三家の嫡子へ伝え、例の面々へは口の
    間に於いて伝え、御意の稜付けは御用番に差し出す、御意のお礼は当番の用人を口の間に呼び伝える
    家伝書付
     御意之趣御一門衆其前例之面々へ申伝候而、皆々御礼と申上候儀ハ、御花畑へ被遊御着坐候、御中柱之御間ニ
     罷出御用人謁、右之面々お礼を引取申上候事  
      御意の趣を御一門衆や例の面々へ申し伝え、皆々がお礼申し上げることは、殿様が花畑邸へお着きになり、中柱の間へまかり出て、
      御用人に会いお礼申し上げ引き取ること、
 一、詰間之玄関草履取を坊主共より出置観音坂之御注進ニて御一門衆同席中一同ニ御玄関前栗石罷出坊主も附参り
   候、尤先御門外桝形之所参御先御行列御門より入候時分、銘々之立場へ相揃候事
    詰間の玄関へ草履取りを坊主共より出しおいて、観音坂からのご注進があってから、御一門衆・同席(家老)中は御玄関前栗石敷へ罷りで
     坊主共もつけ参る事、まず御門の外桝形の所へ参り御先御行列が御門から入られた時分に、銘々の決められた場所へ相揃うこと

     但雨天之節ハ手傘用意之事
      雨天の折は傘は手傘を用意すること
 一、御玄関前ニてハ東之御塀際ニ御一門衆初南頭ニ立並御駕拝見二得ハ下坐 雨天之節ハ此時傘を畳 御駕近付候節進出一
           同ニ御辞儀御駕之戸明キ御一ト通御意被為在候 夫より直ニ元之塀際ニ退居候而御玄関之方を向被遊御上り候跡ニて
   立上り直ニ中柱御間江罷出御一門衆始一同ニ御用人御歓謁候、尤風鳥御杉戸後二〆東向北頭ニ罷出候、又右之引
   取懸於口間御一門衆東側同席中西側双方南頭ニ向合恐悦申述候事
     玄関前では東の塀際に御一門衆、初めに南かしらに並び立ち並びお駕籠を拝見したら下座、雨天の節はこの時傘をたたむ、お籠が近づいた
     ら進みで一同お辞儀、お籠の戸が開いたら一通りの御意(ご挨拶)がある、それからすぐに元の塀際に退き玄関を向き、お上がりなされた
     後立ち上がりすぐに中柱の間へまかり出て、御一門衆ご家老衆一堂に御用人に御喜びを申し上げる、風鳥の杉戸を後ろに閉め東向き北頭に
     罷り出、又引き取りの時は口の間に於いて御一門衆は東側、同席(家老)中は西側に双方南頭に向かい恐悦を申し上げること、
     但右中柱御間ニて之謁者太守様上々様之御歓二て御隠居様若殿様江者便状差上候事
      中柱の間に於いての謁は、太守様・上々様への御歓びにて、ご隠居様若殿様へは便上(手紙)を差し上げること
 一、御当日被差立候御帰国之御使者を詰間へ呼 御一門衆同席中一同ニ奉伺御機嫌 夫より御一門衆ハ直ニ御退去付 其跡
   ニ而御用番より添状并伺御機嫌之稜付相渡候事
    当日江戸へ差し立つ殿様ご帰国を伝える使者を詰め間に呼び、御一門衆・同席中一堂にご機嫌伺い奉り、御一門衆は直に退去され、そのあ
     とに御用番から使者に対しご機嫌伺いの稜付けを相渡すこと

     初旅之人江者慎之書付相渡候但右者 御隠居様若殿様 上々様江御一門衆同席中奉伺御機嫌候隠居其外例之面々
     伺者無之候 且又急之御使者故京都御姫様方へ之伺ハ無之候事
      初旅の者にに対しては慎みの書付(道中の心得?)を渡すこと、但し、ご隠居様・若殿様・上々様へ御一門衆同席中ご機嫌伺い奉り、
      隠居その他例の面々はこれなく、また急ぎの使者は京都の御姫様方への伺いはこれなき事
 一、召出之節ハ御用人より案内有之 御一門衆同席中一同ニ多門落間鷹之御間 佐野御間御入側之通り佐野中柱御入側 境
   杉戸より、九曜之御間御入側東之突当之御襖明キ居、右此所より歌仙御間江一同ニ坐着、尤同御間南御襖際より西
   御中連子際之様ニ打廻り東頭ニ座着之事
    召し出しの節はご用人から案内があり、御一門衆同席中一同に多門落間・鴈の御間・佐野の御間の御入側を通り、佐野の御間・中柱のお間
     御入側境の杉戸から、九曜の御間御入側の東の突き当りの襖明けられており、このところから歌仙の御間へ一同座着、同間南の襖際より中
     連子際へと廻り東を頭に座着すること
    
      
 

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■ねじ花

2021-06-21 11:07:49 | 徒然

 現状スマートホンの写真がPCに取り込みが不可能なため、別途デジカメで証拠写真を撮りました。
右側のたかいものは、高さ40㎝をこえています。

        

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■人並みに

2021-06-20 14:38:31 | 徒然

 先にはトライして失敗した、インターネットでのウイルスワクチン接種の申込に、再度チャレンジしてみた。
お国だか、熊本市だか、要求するままのパスワード(生年月日)を入れても動かない。
どうやら二度目はご自由にということだろうと思い、新たなパスワードを打ち込んでみたら反応してくれた。

まずは順調に動き出して、さてどこで接種を受けようかと考え、以前チェックしたときアウトだった掛かりつけ医を選択したら、7月初めが結構空いている。6日に予約を入れOK、二回目の接種についても同病院で予約を入れたが日取りの確定にはならない。
近々薬をもらいに出かけなければならないし、その時聞けばいいやと思いインターネットでの予約を終了。

折り返し、予約受付完了のメールも入り一件落着、これで人並みに接種が受けられることになった。
「簡単じゃん?」と思って、奥方に申込してやろうかと尋ねると、「NO」の返事、「一番最後にする」という。
奥方はワクチン接種は「若い人からすべき」と考えている人で、「年寄りは後回しで良い」とのお考えである。
まあ、こういうことは無理強いしても仕方がない。まずは私が接種すれば、旦那から移されるという不安がなくなるだけでも良しとしておこう。

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■待ち続けた本

2021-06-20 06:39:24 | 書籍・読書

                      

 十数年来探し求めていた本「有吉将監」が、ようやく手元に届いた。史談会の友人N君が、人様が先に購入しないようにと、J 書店に出向き買い求めてくれていた。
随分高かったが、これは日本の古本屋で奇跡的に私が発見したもので見逃すわけにはいかない。
平成八年(1996)十一月の出版だから、すでに25年経過している。私がこの本の存在を知ってから15年ほどにもなろうか、その時すでに10年を経過していたが、どんなに探しても見つからなかった。
県立図書館にも所蔵していない。

先にも書いたが、ある本を読んでいたらこの書籍から引用された文章を見つけ、何気に検索をかけたら熊本の老舗 J 書店に在庫があったのだ。
昨日の史談会でN君から引き渡しを受けたが、パラパラめくってみると有吉家の現ご当主・登聖氏の写真が掲載されておりなんとお若いことか・・・
内容は今日からゆっくり精読しようと思っている。
細川家三卿家老有吉家の2代将監立英と関係者のことが、520余ページにわたる大部である。

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■6月例会

2021-06-19 18:17:19 | 熊本史談会

 朝方まで降っていた雨もすっかり上がり、御天気となる中例会に出かける。
今回は「蒙古襲来絵詞」の白描図の展観ということで、「まんぼう」も解禁となった中で一般の方が多数参加された。
そんな中、絵詞の所蔵者である会員・大矢野氏(当会・副会長)の熊本弁を交えたユーモアあふれる解説を拝聴、出席者全員が身近に貴重な絵詞を拝見した。
私共は三回目の拝見の機会となったが、会員であるが故の特権である。

 一方、私が事務局を退任させていただいてから、会の充実ぶりは目を見張るばかりである。
大矢野副会長の手で、会旗まで出来上がり、今回寄贈された。
講演者もほとんど今年度分は埋まってしまい、運営委員会諸氏のご努力にただただ感謝である。
これで前任者として、何も心配することもなく一会員として、楽しく皆勤で参加するばかりである。

   
   公演中の大矢野氏 窓際に17mの白描図を展観              新調された会旗
   出席者は後ろの方も満員です。

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■天草本渡の祗園橋

2021-06-19 06:20:40 | 熊本

                                                                 

  天草島原の乱の前哨戦は肥前唐津藩の富岡城代・三宅藤兵衛と一揆軍がこの祗園橋あたりで激突して、川面は血の海と化したと伝えられている。
ここにも川瀬巴水は訪れたのだろう。このような作品が残されていた。
私は半世紀前ほど前に一度だけここを訪れている。誰が説明してくれたのかはよく覚えていないのだが、島原の乱当時からこの橋が存在したものだと思い込んできた。
間違いに気づいたのは、私が歴史狂いしてからのことである。
この祇園橋は天保3年(1832)に大谷健之助なる当時の庄屋が、切支丹殉教戦二百年祭を目途に、地元の有力者や住民の協力を得て着工したものだとされる。
ここを訪れた当時は、この橋を眺めながら「ここで」と言われたので、橋も存在していたと間違って記憶していたが、人に話したこともないから迷惑はおかけしていない。
川瀬巴水もこの川中で、血を流しながら戦うキリシタンと、迎え撃つ藤兵衛以下の戦いを思い描いたことだろう。
穏やかにゆっくりと水は流れていた。

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■今度はスマートホン、トラブル

2021-06-18 20:08:30 | 徒然

 PCにつづき、今度はスマートホンのトラブルである。
スマートホンで撮影した写真を、PCに取り込めなくなった。ロックを解除してくださいとコメントされる。
手っ取り早い解決法は初期化するのが一番らしい。写真は別に消えても構わないが、電話番号が消えるのは大いに困る。
明日の史談会では、蒙古襲来絵詞を映しまくろうと思っていたが、取り込めないならどうしようもない。
明日はデジカメ持参で出かけることにするが、ない頭を振り絞って、なんとか次の説明をたよりにロック解除に努めたいと思っている。

「クイック設定」→「セキュリティ」→「画面ロック」→ ご希望のロック解除セキュリティをタップし、設定してください。「Smart Lock」「指紋認証」は、「クイック設定」→「セキュリティ」から設定できます。また、設定画面から現在設定されている画面ロックの方法で解除し、「なし」に設定すると解除できます。

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■小林半大夫一明

2021-06-18 08:09:24 | 人物

 細川重賢公が家督をされた砌、能太夫を召し寄せられ伝授を受けられたという。「翁」まで相済、ご自身も「翁」を舞われ、家中の者を召し寄せて見物をいたされた時、小林半太夫という用人は見物に出なかったという。
たびたび使いが出されたがとうとう出てこなかった。御能が済んだ頃になり漸くまかり出た。
上役でもあろうか、なぜ遅くなったのかと問うたところ半太夫は次のように答えている。

 先代様のご不幸からいまだ遠からず、また、数十年の困窮で皆々が不安の中に憂いている中、御能を拝見する気分にはありません。
今回の御行跡は甚だ以て心得がたく思います。折々の御慰めには苦しからざる事ですけれど、毎度の御能、その上御伝授の事は、何の御用に立ちましょうか。
自分としては、何の面目があるのか、拝見してご機嫌に合うようなご挨拶を申し上げることは甚だ心外の事です。

 この事を聞かれた重賢公は、「殊の外おあやまり」なさって、以後きっと改めると半太夫をお褒めになり、その後は御能の事は沙汰やみになったという。
重賢公の時代には、こういった有能の士が多く輩出した。諫言を受け入れ、これらの人材を重用した重賢公の度量の大きさにも感心する。

    ■小林半大夫一明(幼名・甚右衛門)八百石
            御物奉行御番方触頭御中小姓頭 屋敷・内坪井
            元文三年七月(着座)~延享元年九月 小姓頭
            延享元年九月~宝暦元年一月 用人

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■運命というキーワード

2021-06-17 18:12:52 | 人物

 資料を整理していたら「玄與日記」が顔を出した。「阿蘇黒斎玄與近衛信輔(信尹)公供上京日記」ともいうが、勅勘を蒙って薩摩の坊津にあった前左大臣近衛信尹の上京(文禄5年‐1596)に随伴した折の記録である。
阿蘇氏の勢力争いの中島津氏の助力を得て大宮司職についた阿蘇惟前は、豊臣秀吉の九州征伐に薩摩の嶋津氏と共に抵抗したが、豊臣家臣・浅野氏の説諭をうけて島津氏を頼り逃れた(天正16年‐1588)という。玄與惟賢も同行し義久に仕えた。
神官として、また武人としての評価はいざ知らず、この日記を残したことで玄與は生き続けている。
玄與は阿蘇内記と名乗っていたようだが、天正18年(1590)宗家の阿蘇惟光に対し宗家に対しての罪を詫び、剃髪したのだという。
しかし、阿蘇惟光は豊臣秀吉により死を賜り、阿蘇大宮司家は途絶えたのである。

 この玄與黒斎について薩摩に下ったと思われる人物に、阿蘇の竹原氏がある。のちに玄可墨斎と名乗るところを見ると、玄與黒斎に大いに影響を受けていると思われる。
玄與黒斎が近衛信尹に随行して上京する年の五年前(文禄元年‐1592)、加藤清正の朝鮮出兵のすきを狙う形で島津氏は加藤氏が領する佐敷城を攻める。
いわゆる「梅北の乱」であるが、
島津義久の弟・歳久が首謀者とされ秀吉により切腹を仰せつけられる。
文禄四年には細川幽斎は検地を命ぜられ薩摩の地に赴いた。
ここで幽斎は、のちの玄可墨斎と名乗る当時九歳の竹原市蔵と出会っている。幼少でありながら才智があり能書でもあったので、幽斎は義久に乞うて市蔵をもらいうけ丹後へ召し連れている。
忠興の代には150石取りとなり、能書であったため有用された。そして細川家の肥後入りにも従い、父祖の地である熊本へ帰るのである。これは運命としか言いようがない。

 この竹原家の代が竹原勘十郎、細川重賢に用人として仕え、堀平太左衛門を推挙してのちの「宝暦の改革」をなさしめた人物であり、この人物の慧眼あってのことである。
自らの意思ではなかなか生きがたい時代、竹原氏は運命の波に揺られながら祖父の地へ戻り、そしてその子孫は名を成したのである。

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