津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「御蔵納」と「御給知」

2021-06-12 14:47:18 | 歴史

 先の投稿の説明不足を補っておきたい。
細川家の54万石とは、いわゆる表高であり、これが軍役などの基本となるものである。
実高は75万石余であったとされる。(いろいろな資料で若干の筋の食い違いがみえる)
そのうち、「肥後読史總覧」によると、実高は753.139石とあり、蔵納地437.000石余、御給知309.000石余とある。
御給知は知行地として与えられるものであり、蔵納地は藩庁の支配するところであり、藩政費や藩主の家政費や御中小姓などの扶持米や切米などに充当された。
御給地と蔵納地における免の数字に違いがあるのは、御給地すなわち侍の知行分の数字が低いのは、賦役や雑税が別途つくことが考慮されているからだという。
免が毎年違うように、この「御蔵納」と「御給知」も時代により数字は違っている。

               
                 鎌田浩著「熊本藩の法と政治」から引用

 寛永18年において、給地高が大きい数字になっているのは、天草島原の乱における恩賞などによる新たな知行や加増などで膨らんだものと思われる。

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■知行100石の手取りが11.1石という現実

2021-06-12 07:04:14 | 史料

 過日■150石取りの収入を書いたら、ある方から1割ほどにしかならなかった時期があったようですよと、ご教示いただいた。
資料は「肥後読史總覧」の下巻であることまでお教えいただいた。頁をめくってみると、1,726頁に(1)年貢とある。

寛永10年から天保9年までの「御蔵納」と「御給知」の免が記されていた。免とは収穫高に対する税率であり「幾つ何分何朱何厘」と表記されている。
1割とは概略の数字で実際は「一つ一分一朱」、つまり11.1%である。これは御給知(知行)分で、御蔵納分は10.71%である。
享保17年のことだとされるが、それまでなんとか「四公六民」が維持されてきたものが崩れ去っている。

島原の乱後においても寛永18年の御給知19.8%・御蔵納25.27%がある。

 熊本藩年表稿で享保17年を見てみると、6月には6日間も水が引かぬ大水害に見舞われ田作は腐れ害虫が発生し、夏から秋にかけ蝗(イナゴ)が発生し、前代未聞の合計478,190石の損耗が発生したとある。
餓死者は届け出分のみで6,125人に上った。

18年に至っても、世に米穀がなく高値となり、人々は飢えに及び、下々は野の草まで食したと公式文書の記してある。

150石とりのお宅は手取り16.65石、1石7万円として116万円ほどの収入ということになる。
あのご婦人がお聞きになったら、さぞかし驚かれることであろう。しかしながら、侍が餓死したという話は聞かない。

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