津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■運命というキーワード

2021-06-17 18:12:52 | 人物

 資料を整理していたら「玄與日記」が顔を出した。「阿蘇黒斎玄與近衛信輔(信尹)公供上京日記」ともいうが、勅勘を蒙って薩摩の坊津にあった前左大臣近衛信尹の上京(文禄5年‐1596)に随伴した折の記録である。
阿蘇氏の勢力争いの中島津氏の助力を得て大宮司職についた阿蘇惟前は、豊臣秀吉の九州征伐に薩摩の嶋津氏と共に抵抗したが、豊臣家臣・浅野氏の説諭をうけて島津氏を頼り逃れた(天正16年‐1588)という。玄與惟賢も同行し義久に仕えた。
神官として、また武人としての評価はいざ知らず、この日記を残したことで玄與は生き続けている。
玄與は阿蘇内記と名乗っていたようだが、天正18年(1590)宗家の阿蘇惟光に対し宗家に対しての罪を詫び、剃髪したのだという。
しかし、阿蘇惟光は豊臣秀吉により死を賜り、阿蘇大宮司家は途絶えたのである。

 この玄與黒斎について薩摩に下ったと思われる人物に、阿蘇の竹原氏がある。のちに玄可墨斎と名乗るところを見ると、玄與黒斎に大いに影響を受けていると思われる。
玄與黒斎が近衛信尹に随行して上京する年の五年前(文禄元年‐1592)、加藤清正の朝鮮出兵のすきを狙う形で島津氏は加藤氏が領する佐敷城を攻める。
いわゆる「梅北の乱」であるが、
島津義久の弟・歳久が首謀者とされ秀吉により切腹を仰せつけられる。
文禄四年には細川幽斎は検地を命ぜられ薩摩の地に赴いた。
ここで幽斎は、のちの玄可墨斎と名乗る当時九歳の竹原市蔵と出会っている。幼少でありながら才智があり能書でもあったので、幽斎は義久に乞うて市蔵をもらいうけ丹後へ召し連れている。
忠興の代には150石取りとなり、能書であったため有用された。そして細川家の肥後入りにも従い、父祖の地である熊本へ帰るのである。これは運命としか言いようがない。

 この竹原家の代が竹原勘十郎、細川重賢に用人として仕え、堀平太左衛門を推挙してのちの「宝暦の改革」をなさしめた人物であり、この人物の慧眼あってのことである。
自らの意思ではなかなか生きがたい時代、竹原氏は運命の波に揺られながら祖父の地へ戻り、そしてその子孫は名を成したのである。

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■ねじねじ巻

2021-06-17 06:40:58 | 徒然

 中尾彬という俳優さんが、マフラーをねじねじ巻にして話題になったが、一般に流行ったようには思えないし、中尾氏は唯我独尊で一人我が道を行くといった態である。数百本ねじねじがあるというから恐れ入る。
なにか手本になるものがあったのだろうか?

 自然界でも、「何故?こんな形に」と思わせるものがある。義父がなくなってもう30年以上になるが、盆栽が好きな義父からもらい受けたものがいくつかある中に、この不思議な植物があった。
平鉢に春先になると蘭の一種を思わせる葉が目を出し、今の時期になると茎が20センチ以上に伸び、ピンクの可愛いい「ねじねじ」を付けた。
しばらくすると枯れてしまい、平鉢はただ泥の山になってしまって、水やりを忘れることもあり、数年後には枯れてしまった。
昨今自衛隊周辺を散歩する中で、この「ねじねじ」が咲いているのを見つけ、昨年数本を抜いて持ち帰り鉢に植えておいた。
見事に今年は姿を現して、「ねじねじ」を見せてくれた。
この植物、正式な名前は「ねじ花」である。なぜか芝生を好むというが、私が採取したところも芝生状になっていた。
散歩コースのその場所は、丁度芽が出るころ植込みの手入れのために刈込が行われたので、今年はまだ見かけることができない。
何のためにこのような不思議な形に進化したのだろうか。
この植物も中尾氏同様、人より変わったスタイルで目だちたいという、唯我独尊の意思を持っているかのようである。

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