津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■谷崎潤一郎の陰影礼賛

2021-06-16 18:42:16 | 書籍・読書

                     

 
 昨日のYOHOOニュースは、あのロシアの女子テニスプレーヤーのマリア・シャラポアが大好きな日本文学についてレビューし、それが谷崎潤一郎の「陰影礼賛」であることを伝えている。
建築を志す学生たちが必ず読まされるのがこの名著である。日本の建築空間に現れる陰影の意匠性を論じている。
シャラポアはこの著にとどまらず、生活の中でこれを体現させているようだ。
一流プレイヤーは一流の見識を持つ。来日する外国からの観光客が古い建築や庭園や町のたたずまいに感動するのは、まさしく谷崎の論ずるところであろう。
ところが、現代日本の住宅事情は、このような空間に身をゆだねるようなことが出来なくなりつつある。
木を植えこむことさえできないような狭小な敷地では、木陰を楽しむこともできない。

明るさを取り込むために大きな建具をしつらえ、狭い敷地で隣の建物が迫ってきてカーテンが開けられない状態である。
余計な照明器具がたくさん設けられ、電気代が倍になったという話をよく聞く。

 私が初めて海外旅行をしたときに泊まったホテルは、部屋の天井に照明器具がなくはじめは違和感を感じたが、大きなスタンドとミラータイトとフットライトがあって、このスイッチを入れると事足りて大いに満足したことを思い出す。
太陽や照明がおりなす陰影こそが、おおいなる安らぎをもたらしてくれる。
我が家の奥方のように「もったいない/\」が口癖で、電気を消して回られると、安らぎもへったくれもないが・・・・
                      

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■作州津山藩士大村庄助の熊本藩士を評論す(1)

2021-06-16 08:22:05 | 人物

 作州津山藩の藩士大村庄助が文政八年に著した「肥後経済録」は、細川重賢の宝暦の改革について論じたものである。
大村庄助は肥後人であり、細川藩士・大村源内(200石)の弟である。41歳の時、当時の津山藩主・松平 康哉公の招きにより仕えた。
この著は、庄助が津山藩士に講義をした記録集だという。大変詳細であり、興味深い記録もある。
庄助の言葉の中に辛辣なものがある。
「(重賢公は)よく/\人を被召仕候、先代(宗孝)の近習なとハ、武文の芸は御座なく、只柔弱ニて何の志も無之者多く、外様にましわり不申候故、自然近習の風と成り、万事不案内の者多く(以下略)」

重賢の時代は「人作り」に努め、用人竹原勘十郎の推挙により堀平太左衛門を起用し、時を得て多くの素晴らしい人材を輩出し、これらの人たちが「宝暦の改革」をならしめた。
同著には何人かの人物評がなされているが、堀平太左衛門・益田弥一右衛門・蒲池喜左衛門などの改革をならしめた人々を称賛している。

少々恥をさらし津山藩に聞こえた人もある。

例えば御一門のN家は、出入りの金貸し商人に名義を貸し、また銀七貫目の資金を提供し、同人が悪辣な取り立てなどを行い豪家になったことを咎められている。
結果、N家と金貸しの家臣が責任を取らされ刎首や切腹数人を出している。当然のことながらこれら金貸し商人は貸金の回収もはばかられ、細民に落ちたと記されている。

これらの事実が暴露されたのは、これらの所業をきらった重賢や大奉行・堀平太左衛門の強い意志がうかがわれる。
しかしながら改革には反動がある。平太左衛門らが亡きあとは改革の意思は継続されず、元の木阿弥となり細川家の苦悩は続く。

 

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