津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■栗石をしく

2021-06-11 11:21:18 | 歴史

 PCが壊れて届くまでの数日間、川添登氏の名著「木と水の建築-伊勢神宮」を読んでいた。
天皇はじめ男性皇族はシルクハットの正装、皇后はじめ女性皇族はローブデコルテの裾を引いて参拝されるが、明治に至るまで代々の天皇が伊勢神宮に詣でるということはなかったという。
どうやら現代のわれわれが伊勢神宮に対し持つ印象は、明治以降醸成されたらしい。
式年遷宮にあたっては「御白石持行事」といわれ、三年余もかけて奉仕団の人々が集めた白い玉砂利が敷き詰められる。
参拝者は「ギシギシ」となる玉砂利の音にも神域の荘厳さを感じるのであろう。
明治神宮その他の各地の大社も同様ではあるが、これらも一つの演出と考えると、御見事といわざるを得ない。

 さて有吉家文書を読んでいると、花畑邸の玄関前の広場には栗石が敷かれていたとある。
ここに書かれている栗石は、栗の実くらいの大きさの玉砂利が敷かれていたというくらいの表現であろう。
私は生業が建築設計だから、栗石というと建築の基礎に用いるいわゆる割栗石を連想する。
玉石を割ったものを小端立てに敷き込むと楔状に石が噛合って、上からの荷重に対応するというわけである。
それはともかく、熊本においては重賢公の初入部までは、出迎えの重臣たちは立って頭を下げる位のことであった。
重賢公は臣下の禮として平伏を求めて駕籠を一度引き返えさせたと伝わる。改めて連枝や重臣たちが平伏する中を、玄関に駕籠を進めらたという。
ひやめし食いの先代藩主の弟という認識はいっぺんに吹き飛ばされた一瞬である。
果たしてその時代、この場所が玉石敷であったのかどうかは定かではない。
該当する有吉文書は文化の末から文政の頭位に書かれたとものと思われる。


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■茶道・萱野家のこと

2021-06-11 06:49:13 | 人物

 先にヤフーオークションを引いて茶道・萱野家文書を書いた。
いつの時代のものか、夕庵とはだれなのかが気になり、萱野家のことを調べてみた。
萱野家は旧姓・古田氏である。織部茶碗で有名な織部正重然父子が徳川家康によって切腹を仰せつけられた際、重然の弟・重府は難をのがれ豊前の萱野伝左衛門のもとに逃れた。伝左衛門は重府の息・正的の娘婿という関係である。
その故をもって萱野姓としたのである。忠利は小倉城に在った時、正的を則近に召し出した。そして「古田家は茶道に因縁ある家」だからと、古市宗庵の茶法の稽古を命ぜられた。寛永十九年に御茶道を仰せつけられている。
寛文元年茶道頭を仰付けられ、元禄二年隠居、宝永四年に八十八歳で卒した。
夕庵とは多分この人物であろうと思われるが、残念ながら系図にその記載が見えない。
いずれにしろ、光尚が肥後を名乗った寛永十一年七月から忠利がなくなる寛永十八年三月までの間であることは間違いない。

また、昨日は蒲池喜左衛門にも触れたが、四代正勝の奥方はこの喜左衛門の妹・和瀬であることに気づいた。
萱野家は明治に至り七代・正房が古田姓に戻している。

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