津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御銀拝借

2012-11-22 09:00:30 | 徒然

 年の暮れともなるとどちらの御宅も物入りで、藩庁に対して御拝借(借金)の申し入れをすることになる。
それは大身の御宅とて同様で、ご家来を沢山お持ちの御宅は大変であり、「御銀拝借願」の文面をみるとなんとも深刻である。
2,000石取りのT家の例である。

 一銭弐拾貫目             ■■■■
         高三百五十石差上  此米五拾六石
        但 下地御取立稜々有之 右之出来六ヶ敷候得
        共 先々取・先取米請取方無之 且又小物成方
        拝借之稜も現上納にして年賦を省キ 差引余米
        を以 来年以後取続別紙之通ニ御座候 此度之
        引取米ハ備り候得共辛キ積前ニ而御座候 極々
        被差支候様子ニ付 右之通拝借可被仰付哉 

 

 この例は文化二年十二月のことであるが、家禄二千石の内三百五十石を差上ての「御拝借」である。
三百五十石の手取り五拾六石とあるから、手取り率は16%とと深刻である。この五拾六石を以て銭弐拾貫目を借り入れたことになる。

 御連枝とて同様で長岡姓 I は、弐百五拾石差上(此米四拾弐石五斗)を以て、銭拾五貫目を拝借、以下高名な御宅の名前がずらりと並んでおり、この時期の生活の困難さを見る思いがする。ならば100石の御中小姓の生活は如何だったろうか・・・・
いつの時代も我が家の経済はあまり変わっていないという事か。 

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志水家と蒲生氏

2012-11-21 17:00:25 | 歴史

 志水元五(日下部与助)室は蒲生四郎兵衛郷安女・和久であるとされる。
元五と父・志水清久(宗加)は細川幽齋の命により息興元に仕えていたが、どういう経緯があったのか父子は興元の元を離れ清久は京都に浪居し、元五は加藤清正に仕えた。 
一方蒲生氏郷の子・秀行に仕えていた一族の四郎兵衛郷安は、秀行の寵臣の渡利八左衛門の専横に対し秀行に諫言するもこれが取り入れられず、八左衛門を殺害、石田三成がとりなして加藤清正の家臣とした。関ヶ原戦が始まると三成に恩義を感じた郷安は小西行長の居城・宇土城に妻子を託し、養嗣子・忠兵衛と共に関ヶ原へ向かうが途中で西軍の敗北を知る。急ぎ妻子を助けるために宇土へ引き返すが、妻子が捕らえられたため自らの命と引き換えに妻子の助命を願って切腹した。
共に切腹して果てた郷安の養嗣子・忠兵衛室が和久であり、孫女・松をつれて志水元五に「被下候」とある。清正の命であろうか。
この後細川忠興が清正に対して元五の細川家復帰を申し入れ、元五はすでに細川家に召しだされていた父宗加を追って細川家に召しだされた。
養女・松(万津は蒲生忠太夫郷教女)が後元五の養嗣子・志水恵重に嫁ぎ、元五系志水氏(新九郎家)として明治に至る。 

(四郎兵衛が渡利八左衛門を殺害した件については異説もあるようである)

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五ケ町--高瀬(玉名)町

2012-11-21 15:06:27 | 地図散歩

 「玉名市立歴史博物館こころピア」がだしている、嘉永七年の「高瀬町図」である。
延久寺の脇に全国的にも有名になった、玉名ラーメンの元祖といわれるラーメン店がある。この周辺の寺町かいわいはほとんど変わっていない。
(先日訪れたら、残念ながら休店日だった・・・・)高祖父・久兵衛が奉行を勤めた奉行所の跡も、いまではその面影を見出すことはできない。

http://ci.nii.ac.jp/els/110006974429.pdf?id=ART0008884195&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1353551386&cp=

http://ci.nii.ac.jp/els/110006642726.pdf?id=ART0008656749&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1353551190&cp=
 

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「朝敵」たちの幕末維新

2012-11-20 15:55:20 | 書籍・読書
   「朝敵」たちの幕末維新
 
     新人物往来社

私の涙腺の弱さは加齢によるものではなく若いころからである。家族とTVをみながら涙ぽろぽろは日常茶飯である。
判官びいきも並ではなく、この本の著者の一人でもある中村彰彦氏の会津に関した本などをよむときには、脇にテイッシュの箱を準備しておかなければならない。
この本も多分そうなること間違いない。

 

内容紹介

幕末史は、これまで勝者である薩摩や長州、土佐の志士に注目が集まる一方、「朝敵」の汚名を着せられた地域は、長らく不遇な立場に置かれてた。
そのため新選組のようなごく一部の例外を除いては、「官軍」と戦った佐幕派の物語が陽の目を見ることは、ほとんどなかった。
本書はそうした佐幕派の生き様を伝えるエピソードを集め、ゆかりの18都道府県ごとに紹介する。
全国各地のそれぞれの地域がどのような幕末を迎えたのか、歴史に埋もれてきた郷土の英雄の生き様を掘り起こすことで明らかにしていく。

 

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肥後・喜多流の祖たる志水一学は・・

2012-11-20 08:18:39 | 歴史

先に 志水家・二つの先祖附の大いなる相違 を書いたが、これにご一族のご子孫からコメントをいただいた。どうやらこれが真実であろうと考えている。

志水一太家の二代目・志水一学は能(喜多流)の優れた演者であり、綱利代に召しだされたとされる。一学家の先祖附はその祖を加兵衛だとして悪兵衛が無妻で子がないため養子となったとしているが、どうやらこれは錯誤であるようだ。
松井家家臣志水氏祖・悪兵衛には加兵衛を頭に四人の男子がある。そのほかに妾腹の京都浪人・道喜成る人物がありこれが一学の祖という事になるらしい。
なぜこのような齟齬が生じたのか知る由もないが、時代が下っての細川家召出であるから、一太家に於いて先祖についての資料が無かったのかもしれない。

能番組に名を残している一学(後・小左衛門600石)であるが、ご子孫の元にこういう貴重な史料が残されていないだろうか。
もしご存じ寄りの方が居られたら御示教をいただけたら幸いである。 

 

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宮本武蔵の墓はどこ・・?

2012-11-19 11:36:52 | 地図散歩

 宮本武蔵の墓といわれるものが熊本に三か所ある。細川家の菩提寺である泰勝寺内の歴代和尚のお墓がある辺りに武蔵の墓があるが、藩主のお墓の守りというのであろうか。二つ目は「西の武蔵塚」と呼ばれる所に、女性の影を匂わせるお墓がある。西の武蔵塚と呼ばれるが、本来は家老有吉家のお墓がメインである。さて三番目が、藩主の参勤交代を見守る「武蔵塚」である。これについては詳しい記録があり、どうやらここが本当の武蔵の墓だろうと私は思っている。

        新免武蔵塚之事
     宝暦三年不時伺帳之内
           覚
     新免武蔵儀、寛永之頃当御国江御見廻参候節、 妙解院様兵法被遊御稽古、打続 真源院様兵法被遊御稽古、御二代御師範申上、 真源院様
     御代、正保二乙酉年於御当地病死仕候、 妙解院様は其以後武蔵流御稽古之儀寺尾求馬申上、武蔵存生之内申上候は、御両代之 太守様御
     師範申上、殊ニ御懇意ニ被 仰付忝奉存候、病死仕候共太守様御参勤之御上下奉拝度奉存候間、往還 御目通石牌建置可申由申候ニ付、病
     死仕候節其趣奉伺候処ニ、其望之通可仕旨筑後殿御下知ニ而、飽田郡弓削村之内杉馬場往還筋 御目通石牌相建申、今之通ニ而御座候、塚
     廻空地之所壱弐反程松杉並木桜等植置、往還筋より之見当も宣御座候而、其時分より右之所を武蔵山と申、今以唱来り申候、然処去年畝山等
     惣払相成申候、右之段遅承付御役人中江前々之儀申達候処、塚廻り切残り之木少々御座候分残申候、其後大風又ハ御用之由ニ而段々致減少
     今二三本ニ相成申候而塚廻雑人牛馬を繋、其外法外之様子ニ而踏荒申候、只今之通御座候ハゝ往々如何躰相成可申哉も難計奉存候、天下無
     双之武蔵墓所と申、御先代御師匠之石牌之所、往々荒野ニ相成申候而は乍恐勿躰儀ニ奉存候、流儀相伝居申候者共も気之毒ニ奉存候、武蔵
     山之儀御立山ニ而も無御座、村方畝山と申ニ而御座候相成申儀ニ御座候ハゝ、右之所壱弐反程拝領仕松杉植立、前々之通見当宜仕、後年荒
     不申様仕置申度奉存候ニ付、御内意奉伺候、以上
           寛延三(1750)庚午年五月                              志方半兵衛

 武蔵が死んだのは正保二年(1645)五月十九日である。この覚の日取りからすると105年が経過している。
塚は荒れ放題だというが、なんとも侘しい話ではある。「 流儀相伝居申候者共も気之毒ニ奉存候」と半兵衛は記しているが、それらの人たちもたまには出かけて草刈くらいされたらよかろうにと思うが如何だろうか。

あちこちでお墓を拝見しているが、無残な姿のお墓を見るにつけご子孫はご存じであろうかと心が痛む。
現在の武蔵塚は熊本市の手により、すばらしい管理がなされている。 http://www.manyou-kumamoto.jp/html/A56.html 

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恥かき爺のたわごと

2012-11-18 10:55:21 | 徒然

生来あまり物事を深く考えない癖がある私は、何事につけ早合点・早とちりの繰り返しである。ブログにいろいろ書き連ねているが、もうちょっと詳しく調べてから書けばよかったと思うこと度々である。お読みの皆様は大変心優しく、「間違ってますよ」とはなかなか仰らないない。故に間違いを積み重ね、ついでに恥をも積み重ねている。「聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥」という格言があるが、70過ぎても恥をかきながら、多いに聞きまくり余生の楽しみである歴史狂いを極めたいと願っている。
一方追込みには大変強いという一面もあって、これで何とか世の中を過ごしてきた。
人生も追込みの時期になっての歴史狂いに、友人から「銭にもならんこつに、なんば狂うたつかい」と奇人扱いを受けているが、「左団扇で余生を楽しんどるお前さんと一緒にしてほしくないな」と些かむきになったりしている。 

最近200万カウントを超えたあたりから、gooブログさんが毎日「あなたは1年前にこんなことを書きましたョ」と連絡してくれる。これがきっかけで、ちょうど1年前の記事を毎日チェックしているが、我がことながらお粗末な話がいろいろある。肥後もっこすの故をもって、消去はしないようにしているが、そろそろ同様の記事をまとめて一本にして辻褄合わせをしようと企んでいる。
 

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あづき坂

2012-11-17 11:03:16 | 地図散歩

 先の 熊本城・昭君の間の抜け道 で書いた不浄門(不開門)を抜けると、現在の熊本県立伝統工芸館の前に出る。
御大工・善蔵はそこから「あづき坂」に出ると語っている。

以前柊坂について記したあと、この坂のことを「タブの木坂」と呼ぶのだということをF氏からご教示いただいた。(柊? タブの木? 参照されたし)
お礼のメールを差し上げた際、善蔵が語る「あずき坂」のことをお尋ねした。
その後「あづき坂」についてご丁寧なご連絡をいただいた。原文のままご紹介する。

茶臼山ト隈本之絵図の解説に、「~東の壷井から坪井川を渡り茶臼山に上る所にアヅキ谷がある。今の厚生年金会館(折栴檀)から家庭裁判所へ上がる坂をアヅキ坂とよんだので、アヅキ谷もこの付近であろう~」とあります。市政だよりくまもとにも、~家庭裁判所から藤園中学の運動場に通じていたアズキ坂の下にあった折栴檀橋で、今では坂道・橋ともに痕跡も見ることはできない」とあります。熊本県の地名には、「~城内の棒庵坂から下りて小豆坂を下り坪井川を渡る。城内から内坪井への唯一の通りで、折栴檀(地元ではオリエセンダンと呼称)と称している(現在ない)」とありますので、坂はそのルートで、谷は家裁と城の間、棒庵坂の北側あたりと認識しております。

新熊本市史の地図絵図編を眺めていたら、棒庵坂を下った向かい側・大木織部の屋敷の脇に内坪井につながる道が記されている絵図(12・熊本之図)があった。大木織部の屋敷は現在の熊本家庭裁判所の位置である。この道に該当するのは、KKRホテルの裏手にある駐車場らしい。内坪井とは6.5メートルほどの高低差(国土地理院のデータから)があるから、これが坂道であることは間違いない。あづき坂の書き込みがある絵図はないかといろいろ探したが見当たらない。
いろいろ思案している内に先にご紹介したDr・T様から提供を受けた絵図に熊本の変貌を見る・・(4) 明治初年の内坪井のことを思い出し、あわてて取り出してみると・・・・・あった。

まさしく「小豆坂」がありその先に「折栴檀橋」が書かれてあった。あわて者の私はここにまったく気が付いていなかった。なんたる不覚(汗・・)
この絵図によると、すぐ近くに栴檀の古木があったことが記されてあり、この橋の由来になっているものと思われる。そして先にご紹介した明治初期の熊本の町名にある比丘尼橋は折栴檀橋の誤りであることが判明した。

 

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志水家・二つの先祖附の大いなる相違

2012-11-16 10:10:40 | 歴史

先に 修正・志水家略系図 で書いた志水悪兵衛の息とも養子ともいわれる加兵衛について、細川家家臣・志水一太家と松井家家臣・志水小八郎家のそれぞれの先祖附において大いなる相違があり大変戸惑っている。

細川家家臣・志水一太家
   三齋様豊前御拝領以後宗賀(志水新之允・宗加)儀帰参被仰付御知行弐千石被拝領仲津御城被成御預段之御取立被下候
   悪兵衛儀は京都江滞居申武者修行仕居候一生無妻ニ而男子無御座候因茲新之允子志水加兵衛を猶子ニ仕名前を立申候
   加兵衛儀其後松井式部と改京都ニ浪人ニ而居申候 志水久右衛門儀右式部子ニ而御座候 志水久左衛門儀右久右衛門子
   ニ而御座候 初代志水権左衛門(仙庵)儀右久右衛門子ニ而御座候(中略) 妙應院様御代於江戸召出 

松井家家臣・志水小八郎家
   (兄伯耆・新之允・宗加は)其後帰参被仰付候、悪兵衛儀(丹後久美で松井氏の客分として合力米三百石拝領)名を志水又左
   衛門元清と改申候、男子四人有之候を何も被召寄候(以下略)
   志水加兵衛儀は志水悪兵衛嫡子ニて御座候、松井の御称号被成御免松井掃部助秀通と改申候(略)松井仁平次常元娘縁組
   被仰付候

   悪兵衛二男 下津半左衛門一安 下津権内一通名跡相続・五百五拾石
     同 三男 志水文右衛門清重
     同 四男 志水九太夫清通   加藤清正に仕三百石→豊後中川内膳正に仕三百石、代々相続

 

 この様にまったく異なる事柄がそれぞれの先祖附に記載されており、真実は如何にと思うがどうしようもない。
    

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幕末維新変革史(上)(下)

2012-11-16 07:36:07 | 書籍・読書
  幕末維新変革史(上)(下)
 
      岩波書店       

上田久兵衛の曾孫にあたるSU様から、東大名誉教授・宮地正人氏著の「幕末維新変革史(上)(下)」が発刊されたことをお知らせいただいた。
宮地正人氏は上田久兵衛に関わる「 幕末京都の政局と朝廷―肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た 」の著者であり、久兵衛の生きざまに光を当てていただいた恩人である。久兵衛は、幕末期の急激な変革の中に身を晒しながら一生懸命に働き、西南の役の勃発にあたっては己の信ずるところにより市民の安寧のために奔走し、冤罪をもって刑死した。勝者の論理による歪められた史観には触れたくもないが、久兵衛の生きた幕末維新期の真実とは何なのかを宮地先生があかしていただけるものと思っている。

              http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/jicho/list/CK2012100902000202.html

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熊本城・昭君の間の抜け道

2012-11-15 07:24:29 | 地図散歩

 熊本城に本丸御殿が完成してから、熊本城人気は引き続いている。とりわけ「 昭君の間」については特別のようだ。
先にご紹介した 史料を読む「御大工棟梁・善藏より聞覺控」 その(了) で、大工・善蔵は昭君の間に秘密の抜け道があったことを語っている。
 

                               それからしょう
                               くんのまのうしろにきみつの間があ          
                               つたこつもおぼへとる かべがめぐる
                               しかけでかべが一ちょうきりつと
                               めぐるとゆかのたかさ六尺ばかり
                               のところからこまかはししごでした
                               におりって女のかみのけでねりあ
                               はせたつなにすがつて下におりそれか
                               らつまる所は不じょう御門からあ    
                               ずきざかにでるやうになつておつた 

 さすがに絵図には記されていないようだが、善蔵の話は信ぴょう性が高い。
「それから昭君の間の後ろに機密の間があったことを覚えている。壁が巡る(回転する)仕掛けになっていて、壁が一丁きりっと廻ると床の高さ六尺ばかりの
所からちいさな梯子で下に降りて、女の髪で練り合わせた綱にすがって下に降り、それからつまるところは不浄御門からあづき坂に出るように成っていた。」 

 が「昭君の間」であり、不浄御門・現在の不開(あかず)の門は――で示したところである。
この絵図は細川時代のものであるから、機密の間も存在しないがどこから抜ければ不開門に簡単に抜けられるのか、大変興味深い。

さて「あづき坂」については、稿を改めたいと思う。 

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お出でまっせ

2012-11-14 13:01:01 | 熊本

山鹿市の「さくら湯」の建設工事が竣工し昨日お披露目された。オープンは11月23日である。

                               

この「さくら湯」は、細川忠利公が温泉療養のために寛永17年にお茶屋を建てたことが始まりといわれています。
忠利公の山鹿通いは度々行われたことが記録に残っています。昭和48年大規模都市再開発事業でとりこわされ、今般古い資料を基に復元新築されました。新たな山鹿の観光拠点となることでしょう。皆さんお出でまっせ~。 

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修正・志水家略系図

2012-11-14 09:11:41 | 史料

                                        +---九郎左衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→京都・九郎左衛門家
     宗加                                                                |
 ---+--志水清久---+--九左衛門---次郎兵衛(九兵衛)---+==久馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→凍家(1,200石)
   |          |
   |          |日下部与助          新之丞克重
   |          +--元五---+==恵重---+---吉之允・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→新九郎家(1,000石)
   |          |       |      |        ∥
   |          |       |      |  圓光院(筑紫重門・細川幸隆女兼夫婦の女)
   |          |       |      |
   |          |       |      +---権之助・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→隼太家(300石)
   |          |       |      |
   |          |       |      +---四郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→源九郎家(250石)

   |          |       |
   |          |       +--久馬(九兵衛為養子)
   |          |       |
   |          |       +--菊 (庄林隼人・一心室)
   |          |
   |          |  雅楽      牛之介       
   |          +--恵之---+--元茂--+--新九郎(不満・若年絶家)
   |          |       |      |
   |          |       |      +--●蝶(兄・新九郎跡目相続300石)
   |          |       |          ∥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→長瀬三七郎家
   |          |       |        長瀬助之允
   |          |       |
   |          |       +--恵重(元五為養子)
   |          |     
   |          +--要善院日富 志水家菩提寺・真浄寺創建
   |          |
   |          +--加兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 一太家(300石)
   |                                                                     → 三弥家(250石)
   |     
   |                  
   +--悪兵衛清秀----加兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→八代松井家家臣・志水家
                  

 

志水元五室は蒲生四郎兵衛郷安女である。また元五には養女・(松、万津=蒲生忠太夫郷教女)があり、これに弟・恵之の二男恵重を迎えて継嗣子となしている。蒲生氏とのかかわりの深さが感じられるが、詳細を知りえないでいる。

元五の弟加兵衛が叔父・悪兵衛(無妻・子なしとする)の養子となっている(松井式部)とする細川家家臣・一太家(500石)がある。
一方、松井家家臣志水小八郎家の加兵衛は悪兵衛の嫡男(弟三名あり)だとする。大いなる齟齬があり、真実の程は不明である。 

                                         11:16大幅に修正す

 

 

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クレーン事故

2012-11-13 14:51:22 | 熊本

 熊本では昨日、九州新幹線の高架に、在来線高架化の工事中のクレーンが倒れかかり、六時間ほど新幹線が不通になる事故がありました。
架線にクレーンが接触したため電力の供給ができなくなったのが直接の原因のようですが、数千人の方々の足が奪われてしまいました。
場所はこのブログでも何度か書きました、高麗門や御成道の発掘現場にほど近いところです。クレーン車の片方のキャタピラが軟らかい地盤にめり込んで倒れこんでしまったものですが、ここはかって堀があったところでこれを埋め立てた場所に当たります。
私たちは何度も発掘現場を眺めてきましたから、堀の存在はよく承知をしていたのですが、工事関係者の皆さんも発掘現場をご覧になっていれば、こんな事故に至らなかったのではないかと思ったりしています。
発掘現場は埋め戻され、高架の下になり眠りにつくことになります。いろいろ貴重な資料が得られたようで、また報告会などがあるのではないかと期待していますし、これをきっかけにして、地元ではいろいろな仕掛けでイベントその他活発な活動が行われるようになりました。
いろいろ話題の多い、横手・新町地区です。
 

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バッティング・・気になるぅ・・

2012-11-13 11:44:15 | 徒然

 投句は別として、雰囲気を味わってみたいと思う「草枕・国際俳句大会」だが、史談会の11月例会とバッティングしてしまった。
最近の私はまったく句をよむことができなくなって、ただひたすら句集を読んだり関連する本を読んだりして過ごしている。
下手は下手なりでスランプがある。下手を認識して落ち込んでしまっているのだが、なんとか一歩前進しようとあがいている。 

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