津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

志水元五邸

2012-11-12 16:57:47 | 史料

 故あって志水家に関する資料を集めている。思いがけなく志水元五邸の平面図を見つけ出した。新熊本市史別編第三巻「第三編・建築」に掲載されていた。
志水元五は志水伯耆守清久の二男で、志水伯耆守元五また日下部与助とも名乗り高名な人物である。
         綿考輯録から「志水家」のこと

清久の嫡男・九左衛門清治の家系は、元五の子・久馬助元明を養子として明治に至っている。志水凍家(1,200石)である。
元五の直系は継嗣・新之丞を祖とする新九郎家(1,000石)であり、その子・権之助系が隼太家、四郎兵衛系が源九郎家として明治に至っている。
判っている限りにおいては、元五の女子は庄林隼人の孫・隼人一吉に嫁いだ菊なる人がある。又蒲生郷教女・松を養女とし新之丞室とした。
         庄林家相関図

元五家資料を見ても、後代元五を名乗った人は見受けられないので、伯耆守元五(日下部与助)の住まいであろうか。志水凍家の資料による元五は天正二年生まれ、慶安二年八月十三日没とある。ここで亡くなったということであろうか。室は蒲生郷安女・和久である。
新之允・久馬助・菊・養女松らとこの家に一緒に住まいしたとは考えにくいが、それにしても大身の元五の住まいにしてはいささか小さく感じるが、このようなものであったのだろうか。志水家菩提寺(元五弟・要善院日當創建)寺内にあったとされる。興味深い史料ではある。 

                                               11:16修正

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柊? タブの木?

2012-11-12 09:11:16 | 徒然

 先に城内藤崎台球場前の「柊坂」について書いた。熊本史談会のF様からメールを頂戴し、このことは「肥後國史」に由来するものらしく、「宮内より古京町に下る筆崎の下、志水氏岩間氏門前の坂を云う。大河原氏屋敷内大柊の木あるか故に名付く。近年枯木になる。」とあるという。

F様からご教示いただいたことをご紹介したい。
「熊本県の地名」には、---宮内通を二ノ丸の西空堀を過ぎ、約三五間ほど西に下る途中から、北に入る柊木坂があり、藤崎台から古京町に至る唯一の道である。---とあります。

一方近年この坂をタブの木坂とする資料がある。
「舊藩時代熊本城全圖」には「タブノ木坂」、「明治初期熊本の地名」図にも「新タブノキ坂」。「大正八年熊本市全図」も「タブノキ坂」になっています。
大木があったという大河原氏屋敷につきましては、市史・絵図地図偏の48頁、神護寺のすぐ東側の三叉路角に大河原貞右衛門屋敷が見えます。 


なんとも悩ましい話ではある。柊は枯木となったというから、タブの木を植えこれがまた大木になって名を遺したというのであろうか。他力本願の私としては、F様のお力をお借りして真実をお教えいただこうと思っている。 

 

余談であるがつい最近、滋賀県彦根市八坂町の犬上川改修工事で県が貴重なタブノキを伐採し、問題化している。
              http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121110-00000189-mailo-l25

また一方、東北の津波被害地では、タブの木の防波堤を作る構想が進められている。
              http://www.nikkei.com/article/DGXBZO38414600Q2A130C1000000/
細川護煕さまはわざわざ野田首相に合われた際進言されたとも聞く。ことの進展が気になっている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする