細川文書(宇土)6 家筋調 一
トップページは井門(いど)家である。忠興公に従い八代に在ったが、宇土支藩創立に伴い家老として仕えることになる。
名君の呼ばれ高い宇土支藩六代興文公は、一時期この井門家の養子であった。
幽齋公田邊城籠城の際、攻め手の赤松左兵衛の家臣としてその働き振りを賞賛された物頭井門(いど)亀右衛門は、後忠興公により召し寄せられる。その働き振りを綿考輯録は次のように記す。
赤松左兵衛陳の内より、母衣武者一騎かけ出、杉の馬場口へ乗廻し候躰如何様一ふし可有之と、城中各覚悟いたし候に、左はなくて、堀溝にかゝミ、引兼たる者共を可引取との儀にて、馬上にさいを振廻し、見方を招き、馬を乗廻し、順逆に輪を乗、静に引取候躰、見事なる振也、母衣は白赤、横に段々筋、母衣の出しは同毛三ッ羽子、間に蛇の目有、馬は栗毛とも、粟毛共見へ候、城中よりねらひ、鉄炮余多打懸候へとも、程遠き故か不中、此武者赤松左兵衛・物頭井門亀右衛門重行と云者也
又「古武士の面影」は次のように記している。(井戸(井門)亀右衛門 参照)
亀右衛門---+---亀右衛門重忠
| 千石・若年にて相果、跡断絶
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| 中津別禄召出 宇土代々家老・禄七百石
+---少次郎重之---------次郎左衛門重之・・・・・・次郎左衛門重
八代御供 文三郎 宗中