津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

志水家・二つの先祖附の大いなる相違

2012-11-16 10:10:40 | 歴史

先に 修正・志水家略系図 で書いた志水悪兵衛の息とも養子ともいわれる加兵衛について、細川家家臣・志水一太家と松井家家臣・志水小八郎家のそれぞれの先祖附において大いなる相違があり大変戸惑っている。

細川家家臣・志水一太家
   三齋様豊前御拝領以後宗賀(志水新之允・宗加)儀帰参被仰付御知行弐千石被拝領仲津御城被成御預段之御取立被下候
   悪兵衛儀は京都江滞居申武者修行仕居候一生無妻ニ而男子無御座候因茲新之允子志水加兵衛を猶子ニ仕名前を立申候
   加兵衛儀其後松井式部と改京都ニ浪人ニ而居申候 志水久右衛門儀右式部子ニ而御座候 志水久左衛門儀右久右衛門子
   ニ而御座候 初代志水権左衛門(仙庵)儀右久右衛門子ニ而御座候(中略) 妙應院様御代於江戸召出 

松井家家臣・志水小八郎家
   (兄伯耆・新之允・宗加は)其後帰参被仰付候、悪兵衛儀(丹後久美で松井氏の客分として合力米三百石拝領)名を志水又左
   衛門元清と改申候、男子四人有之候を何も被召寄候(以下略)
   志水加兵衛儀は志水悪兵衛嫡子ニて御座候、松井の御称号被成御免松井掃部助秀通と改申候(略)松井仁平次常元娘縁組
   被仰付候

   悪兵衛二男 下津半左衛門一安 下津権内一通名跡相続・五百五拾石
     同 三男 志水文右衛門清重
     同 四男 志水九太夫清通   加藤清正に仕三百石→豊後中川内膳正に仕三百石、代々相続

 

 この様にまったく異なる事柄がそれぞれの先祖附に記載されており、真実は如何にと思うがどうしようもない。
    

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2 コメント

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志水一太家について (志水(峰山))
2012-11-19 00:34:10
細川家臣志水一太家について資料を精査してみました。
志水家本家資料によると悪兵衛清秀の妾腹の子に志水道喜なる者京都に住み、其の子一学と供に妙應院(綱利公)に、能の名人の為に召し出され、新知行百石賜るとしながら、細川家(新撰御家譜原本)に依れば志水悪兵衛清秀京都へ滞在中武者修行仕居、一生無妻ニテ兄新之丞の子志水加兵衛その後松井式部と改、京都に浪人にて居申候。志水久右衛門右、式部の子、志水久左衛門右久右衛門の子志水権左衛門右久左衛門の子とある。
*しかしながら志水伯耆と悪兵衛兄弟が活躍した慶長年間(1600頃)から権左衛門が綱利公に召し出された明暦三年(1657)の間に久右衛門と久左衛門の存在が疑問でその年数も合致しないと考察されています(本家資料より)                         以上のことから私なりに考察してみました。
*初代志水権左衛門(本家資料では悪兵衛清秀の妾腹の子志水道喜)
剃髪仕仙庵と改、京都へ浪人して居住、明暦三年妙應院ノ御代於江戸被召出、合力百石参拾人扶持被拝領。
*明暦三年(1657)に召出の時に提出した先祖附があまりに時間が経過していたので間違ったのではないでしょうか?それとも悪兵衛の妾腹の子志水道喜では何か都合が悪いことがあったのでしょうか?
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肥後喜多流の祖 (津々堂)
2012-11-19 08:45:12
これらの喰い違いを理解しがたく居りましたが、ご教示により氷解いたしました。実は一学様は肥後喜多流の祖とも言われて居ります。もしご子孫が判明すれば、これらのことに関する資料が残されているのではないかと考えているところでございます。こんごともいろいろご教示いただきますようお願い申し上げます。
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