魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

私がする

2015年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

先日たまたま、ネット上で、「若者の車離れ」の話題に怒っている若者のBBSを見かけた。
驚いたのは、全体に、「また、若者のせいにする」といった、共通認識だったことだ。

車が売れないのは自分たち大人の責任で、若者には関係ないのに、何でもかんでも俺たちのせいにする。
海外留学も車に興味ないのも、俺たちの勝手だろう。ほっといてくれ。
そんなムードが溢れていた。

全くその通りで、若者には若者の興味を引くこと、やりたいことがあるわけで、大人が自分たちの価値観で、こうあるべきだと言うのは、それこそ頑迷固陋というものだ。

ただ、驚いたのは、若者の受け止め方だ。
大人は何も、若者のせいにしているワケではない。もちろん「若者の」と言う場合は、若者を、大人と別けているから、その言い方だけで、何か、区別や差別をしているように聞こえるのかもしれないが、単純に、現状分析のために過去の消費者と比較しているだけだ。
「近頃は女性の間で、一眼がブームになっている」と言っても、特別に女性に感謝する意図は無い。

自分たちについて、何か言われると、『また何か、悪者にされるんじゃないか』と、思っているから、反発感情がわくのだろう。
裏を返せば、それこそ「近頃の若者」は、良い子にならなければならない、強迫観念があるのではなかろうか。自分のことを悪く思われたくないから、少しでもネガティブな響きがあると拒否反応を起こす。

若者のこうした感性や価値観は、大人が作り出したものだ。学校でも会社でも、責任回避が大前提になっている。言葉の一つ一つを「のかな?」とか、「と、言われています」のように、疑問形で結んだり、「させていただきます」*と、自分の意志を曖昧にしてしまう。
そして、何かと言えば、ハラスメントや、言葉狩りが横行し、個人の意志を封殺し、社会全体が、何もできない物も言えない空気で覆われている。

こんな社会で育つと、無自覚のうちに、少しでも責められることを避けようとし、非難されることを恐れるようになる。

社会秩序が破壊された、戦後の20年ほどは、若者に束縛は無かった。
太陽族から、ロックブームの頃まで、大人が「近頃の若者は」と言うのを、無視してせせら笑っていた。
大人の事情を思いやって、「自分たちが困った事を俺たちのせいにするな」と、怒る気などさらさら無かった。

社会の活力である若者の元気は、大人を無視するところから始まる。
若者にも、そういう無頼になって欲しいが、大人も、自分たちと比較せず、もっともっと、勝手きままに生きた方が、双方元気になるのかもしれない。
まずは何事も、「私がします」と、ハッキリした物言いをすることだ。

 


「させていただきます」の言い回しは、神様仏様、世の中に対する感謝の気持ちを込めた、謙虚な物言いのように思われているのだろうが、実は、他の存在によって認可されて行ったことを意味する。つまり、最終責任は自分には無いことを意味している。

レースで「1位にさせていただきました」と、いった不可思議な言い方が横行するのは、自分が勝ったと自惚れているわけではない、と表明して、周りからの妬みや風当たりを避けようとするものだ。それだけ社会が、足を引っ張り、出る杭を打とうとする空気に満ちているのだが、それが習慣化して、ますます、無責任な閉塞社会になっている。

「サ、サせていたダ、ダきました・・・」のような、ややこしい言い方を止めて、
勇気ある人から、「やったー」「がんばったー」と、胸を張って言って欲しい。