魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

思いの形

2015年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ上げた記事に、少々、補足を加えた。
春ですね」では、二十四節気。「私がする」では、「させていただきます」について。

言葉足らずかなと、気になっていたので付加した。時々、古い記事を読み返して、「P.S.」や「※」で補足することがある。
また、「Gooブログ」に移ってからは、過去記事の検索方法が違うので、リンクが張りにくい。その分、「同じようなことを書くな」と言われなくなって、気楽になった。

類似記事にリンクを張れば、「くどい」と思われるのは当然かもしれない。そうでなくても、視点がぶれないように意識しているから、「またか」と思われたら、喜ばしい。
絵や塑像を塗り重ねて描くのと同様で、思いは一言では表せない。
ああでもない、こうでもないと重ねていいけば、それぞれは矛盾していても、何となく全体像が見えてくるのではないかと思う。それが何であれだが。

もともと、表現は、目に見える結果が真実ではない。
言葉は、思いの衣服であり、思いは何者かの意志であり、何者かは、環境が生み出す形無き存在であり、環境は宇宙であり、宇宙は際限の無い絶対だ。
それを、神とするかしないかは、その人の人格による。人格はどこに立っているかで変わってくる。

だから、人は互いに自分がどこに立っているかを確認しようとする。語り、聴こうとする。
極端な例で言えば、無差別殺人をする人は、確認の手段を失った人だ。自分が解らないから、同等であるはずの他人を殺すことで自分を確認しようとする。
言動による、体感を通したコミュニケーションができないから、自分の消滅で、自分の存在を確認しようとする。自分の消滅手段として、自殺か殺人かの違いはあっても衝動の原点は同じだ。

若いうちは元気もあるし、自分を理解してもらうために、あるいは、自分自身を理解するために、多くの言葉を交わす。しかし、年を取れば、相手も自分も大体解っているから、あまり言葉を交わさなくなる。
年を取ると口数が少なくなるのは、言葉を超えたものが見えてくることもある。言葉のむなしさを体感するからでもある。

占いが視ようとするものも、この境地だ。言葉で説明のつかない存在。
時空を超えた悠久の大河。
まさに、「月日は百代の過客」「ゆく河の流れは絶えずして」だ。