魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

高齢沸騰

2015年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

政府は介護費用引き下げのため、介護福祉現場の処遇の改善策を出してきた。
基本は介護報酬の引き下げだが、一方で報酬に見合わない厳しい現場に、なり手が無く、人手が足りなくなっている。
この件だけではない。世の中、何かが間違っている。

この「何か」の、最大のものは、社会構造ビジョンの欠落だろう。
キリスト教主義を前提とした社会イメージと、仏教と海洋民族で培ってきた日本の風土とは本質的に異なる。
牧畜民から生まれた一神教を前提とする部族、家族、個人の発展形と、海洋、農耕民から生まれた、「場」で結束する集団の進む道は同じではない。
財産に対する考え方、自他の関係が根本的に違う。

牧畜は家畜という所有動産が基本だから、持つ者と持たぬ者に差があるのは当然だ。
ところが、漁労や農耕は天候に左右され、生死は共同体すべて一蓮托生だから、分かち合うことが前提になる。
欧米のように、先ず自分の生存を守り、その上で、困窮者に恵む牧畜的発想と、日本や東南アジアのように、自分一人生き残っても生きていけない運命共同体とでは、産業が発展して同じように共同体を成しても、根底的な目的が違う。

現在の福祉のあり方は、牧畜民による欧米の価値観で方向付けされている。
しかし、東洋、ことに日本のような海洋民には、個を前提とした、「システム福祉」には馴染めない。つまり上手くいかない。現状の矛盾の根源はそこにある。

日本には日本の未来
個々に行き渡る福祉より、地域や仲間や親族による、共同体再構築による、相互扶助を前提とする福祉の方が、馴染みやすく、スムーズに行くだろう。
現在のように、国が主導して、福祉システムを作り、そこに、介護する人される人を配置するようなやり方は、ザルで水をすくうようなものだ。

水は器に入れ、熱すれば、勝手に沸騰する。
歳をとっても一律に介護福祉費を払わせられると、元気でも、介護を利用しなければ損だと思う人は少なくない。

歳をとっても元気な人もいる。老老介護を問題のように言うが、人が集まって暮らせば、あるいは、コミュニケーションが密であれば、多少弱った人でも元気になるし、互いの声かけで、相当程度の老老介護も可能になる。
「介護」と言うから問題になるが、支え合いのことであり、実際、介護されて寝たきりだった人が、異性が現れたら、突然、元気になって歩き出したような話は珍しくない。

生きがいが出来れば、現在、寝たきりや被介護の人も、半分ぐらいは介護が不要になるのではなかろうか。それどころか、生産性のあることに生きがいを見いだせば、社会そのものが活気づく。女性の活躍も大事だが、年寄りの活用にも目を向けるべきだ。
年寄りが、少なくとも自活できれば、国家経済に資することは大だ。

介護システムより、高齢者コミュニティの後押し、老人の活用分野の見直しの方が、先ではなかろうか。