魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

列島の心

2015年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、「豊かな国」で、婚姻と出産を別けて考えるべきだと書いたばかりで、渋谷区で同性の婚姻相当証明を出すニュースが出た。
理由は違うが、結果的に同じ主張で、まあ、賛同する。

大体、世界中で同性婚がたいそうな問題になるのも、婚姻が育児と一体と考えられているからだ。
確かに、動物の文化を法制化すれば、子供を育てる単位が、婚姻になるから、婚姻は子供を産み育てるための両性の単位でなければならないことになる。
ここで言う法制化とは、聖書などの「掟」に端を発するもので、宗教的で厳格な縛りを前提にしている。

そして、一神教の発展形としての現代文明では、事実上、徴税の単位でありながら、男女の性の概念から切り離せないでいる。(もちろん、徴税は社会保障と一体化しているのだが)
だから同性婚が大問題になる。結婚しなければ社会的に不利なのに、同性は拒否されているからだ。

しかし、一神教と関係の無い、日本のような海洋民族には、元来、西欧のような婚姻の概念が薄い。2人が一緒になってから結婚するのではなく、一緒になった2人が上手くやって行ければ、結果的にそれが一つの単位として周知され、認められていく。
別れるようなことになれば、女が引き取り、その親(祖父母)と面倒を見ていく。
こういう世界では、同性同士がわざわざ「結婚」する必要もない。

ただ、問題は、現代の国家がキリスト教の発展形で、このような、「いい加減な家族関係」を前提にしていないことだ。
ここが、何度も言う、日本独自の家族と社会のあり方のビジョンを必要とするところだ。

日本が、これから先の社会も、「国家」を前提に考えていくなら、夫婦や家族を単位とする徴税や社会保障の考え方を止めて、基本単位を個人とし、家族単位で発生していた義務と権利を、直接、国家との関係とすることだろう。
ただ、これは全体主義との区別がつきににくく、よほど高度な個の認識がなければ、極めて危険なあり方になりかねない。

日本の戦前の全体主義も、戦後の、最も上手く共産化した資本主義国と言われたのも、日本人の底流に、海洋民族的な島国共同体の体質が流れているからではなかろうか。