魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

悟り社会

2015年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム

台湾の飛行機事故の映像には驚いたが、今回も、車載カメラに写ったものだった。ロシアの隕石衝突も、車載カメラだ。
事故の犠牲者への哀悼は別として、今や車載カメラ、あるいは、ウエアラブルカメラは宝くじだ。
意図せずして、狙っても撮れない映像が撮れる。

カメラを設置しているだけで、思いがけないお金が転がり込んでくるかもしれない。
ロシアの隕石衝突映像はウエブや使用料だけで、おそらく隕石を拾いに行った人より儲かっただろう。ただし、これも、宝くじ同様、狙って当たるものではない。

この先、ウエアラブルカメラが普及したり、もっと発展して、コンタクトカメラのようなものができれば、見ただけで記録するようになる。
昔、見ただけで記憶するスパイの話が有ったように思う。しかし今後は、文章だろうが図面だろうが見ただけで、誰でも記録するようになる。

そうなると逆に、「私は見ました」と言う嘘がつけなくなる。その一方で、映像加工技術が発達するだろうから、映像だけで、真偽の判断が出来なくなる。
映像が氾濫し、脳波を読んで人の考えも分かるような時代になると、逆に、真偽が分からないから、無感動になる。

年寄りの歳月が短いのは、何を見聞しても感動しなくなるからだ。どんな出来事も、経験と想定の範囲内であり、何事も珍しくない。
情報の氾濫するネット社会は、若者をも、そうした無感動人間に変えつつある。
近頃、話題のセックスレスも、タブーの無い日本社会が影響しているのかもしれない。

社会が自由になるほど、日本人は自己規制を始めた。
自由を国是とするフランス社会が、自己規制をしないのは、移民の異文化に対抗して、常に自分たちの文化主張を迫られるからだろう。
日本の場合は、国内に対抗する相手がほとんど無いので、文化創造が外より内に向かう。それが、自粛だ。

岡本太郎は、「芸術は爆発だ!」と言っていたが、日本の芸術は調和だ。
芸術は、本来、既成概念の破壊であり、保守派のひんしゅくを買うものだ。だから本来、国家から表彰されるような時点で、既に芸術ではなくなる。
日本の場合、世界的に評価される芸術は、浮世絵のように御法度の目をかいくぐったものが多い。ただ、仏像や建築、絵巻物のように、権力者の側から出たものも多く、日本社会の敷居の低さも大いに寄与している。そうした環境も、日本の調和芸術の背景になったのだろう。

焚書坑儒をやるような国には芸術は生まれないし、仏像の顔を削いで回った末裔が、平和主義とは聞いてあきれる。そういう狂信文化を取り入れようとしたことが、日本でも明治維新の廃仏毀釈として起こったが、すぐほとぼりが冷めた。

今、自分たちの心情を傷つけたと、世界中で互いに争っているが、これから始まる「相互お見通し」の社会では、相手に対して、「言ってはいけないこと」の礼儀が通用しなくなる。思ったことは皆、表に出て、知られてしまうからだ。
これからの社会は、「相手が何を思おうと」、許すことが礼儀になるのだろう。
まさに、慈悲と赦しの社会だ。