魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

時勢現象

2013年05月16日 | 兄弟関係

安倍首相が津波被害の自衛隊松島基地で乗り込んだ「ブルーインパルス」の練習機「731」が、人体実験で知られる旧日本軍「731部隊」と同じだったので、韓国のマスコミが、極右の本性を現した挑発だと色めき立っている。

良く調べず、他人の指摘や、呼び名のインパクトに食いつくのは、創氏改名、挺身隊、従軍慰安婦、第三国人呼称、日本海呼称、旭日旗・・・
驚くべきエネルギーだが、これも末っ子独特のパターンだ。
意味や実体より、名詞を叫び、人の反応を見て、次の出方を考える。
相手がビックリしたり怒ったりすれば、とりつく島ができ、エンジンがかかるが、無視されれば、立ち消える。

末っ子の韓国が、出たとこ勝負の「変化」に食いつくのに対し、長子の中国は、魂胆を持って、策略的に、試しの「信号弾」を打ち上げる。
いずれも、相手の反応の仕方で、撤退か追求かを、判断する。
腹と智恵のあった昔の日本人は、こんなことに引っかからなかったが、戦後の日本人は、向こうからすれば面白いぐらい、すぐ反応する。

戦後、大家族の縛りが無くなり、一族の責任者意識が無くなったからだろうか、自分のプライドのために、すぐ良い子になりたがり、言い訳や、訳知り、反論をする。「私はバカではありません」と、言いたがる。

昔の日本人の口が重かったのは、エエカッコのためではない。
バカと思われようと、悪者と思われようと、どう振る舞うべきかを考えていたからだ。そして、一度口を開き、動き出せば、「武士に二言は」許されなかった。
それが必ずしも良いことばかりではないが、沈思黙考は、島国に生まれた深い文化だ。

ところで、「731」は偶然だと言う安倍政権だが、2006年にTBSが731部隊の特集をした時、当時の安倍官房長官の顔をダブらせイメージダウンを図ったと、騒ぎになった。この時、偶然だと言うTBSに対し総務省は厳重注意の処分をした。

何とも因縁めいているが、そういう事件があった過去を踏まえれば、逆説的に、今回の「731」は、本当に偶然だったのだろう。
しかし、だとすれば、あまりにも不注意きわまりない。良し悪しは別にして、政権の座にある者が「意図せぬ」ミスをするのは、これまでなら直ちに、足下をすくわれた。

韓国は、安倍政権の数字絡みの偶然を、意図的な極右の意思表示と、これまた、もってこいのネタで叩いているが、いかにも表面しか見ない勘ぐりだ。

それにしても、意図的ではないかと思うほど、何でここまで、と言うほど、数字の偶然が重なるが、これは、占い的には当然の時勢現象だ。
96条論議の前から、映画「96時間」があり、その続編も今回DVD化された。ゲームアニメの「クロノア」をマニアは「96」と呼ぶそうだ。
そして、当の安倍総理が96代総理大臣で、96条改定にとりつかれている。

「96」は単数なら「6」。金星の数だから美と愛の数で、天秤座と牡牛座の象徴だ。天秤座の180゜に天王星。牡牛座の180゜に土星。
いまだ、金星は不安定で、何かと取りざたされる時には違いない。

同じ愛の数字でも、「69」なら、もう少し楽しい話題になったのかも知れない。


ごちそう

2013年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

14日のニュースは、昆虫食の話題で盛り上がっていた。
国連食糧農業機関(FAO)が、人口爆発の食糧難に備えて、昆虫食を提案しているそうだ。
レポーターが実際に食べて、「なるほど」のようなコメントをしていたが、全体には「ウェー」の漂うニュースだった。

これまでも、中部地方では虫を食べると、下手物食いの話題で面白がっていたが、自分が食べないからと言って、馬鹿にしたりするのは、異文化を野蛮人と見なす、それこそ野蛮人の発想だ。

野蛮人とは、無知で、自分の世界しか理解できず、その世界からしか物を見られない偏狭な視野で暮らす人々のことだが、文明の装い、文明の利器を使って暮らしていても、頭の中が、その偏狭な野蛮人のままの人々がいる。
急速なグローバリズムで、知識や文明の利器を手にしたその野蛮人が、自分の価値観だけで、他を誹謗、攻撃するから、世界はなおさら混乱する。

FAOの人が、「食べ物は慣れの問題で、20年前は生魚の鮨を食べる人はいなかった」と言っていた。まさにその通りで、文明文化に視野の広い人にとっては、文化的忌避は考慮に値しないバカげたことで、日本人が、豚肉を食べないイスラム教徒を不思議に思うのと同じ事だ。

ごちそう
幼い頃、山奥に預けられていたので、イナゴの佃煮が大好物だった。
食糧難の頃でもあり、流通環境からも、牛肉や豚肉など見たこともなかったし、ブリキ缶を担いで魚を売りに来るおばさんの魚も、ほとんどが塩漬けや干物だった。

どうやって料理してあったのか記憶にないが、育ち盛りの子供には、タンパク質の豊富なイナゴは、問答無用の誘惑で、これも大人の目を盗んでは食べていた。それほど美味かった。(留守小僧
どんな味だったかは良く覚えていないのだが、口に入れて咀嚼する時の、至福の記憶だけは残っている。

学生の頃、青森出身の友達は、栗や南京豆のナッツ類ばかり好んで食べていた。三内丸山古墳で縄文の栗林が発見されたニュースを聞いた時、『あ、これのDNAだ』と思い当たった。

その友達が、飲もうと酒を持ってきたのだが、酒の肴に驚いた。
市販されているものだから何の不思議もないのだが、「わざわざこんな物を選ぶか?」と、嗜好の違いに感動した。

沢ガニを姿のまま乾燥させたもので、バリバリとかじると、足の爪が口の中で突き刺さる。それでも構わずかじりながら一杯やると、干しエビをかじるようで、またひと味違う食感がある。不味くはないが、自分では買わないだろう。だから、その時まで、そんなものが売られていることすら知らなかった。

昆虫だろうが蛇だろうが、先入観を捨てて、食べてみれば、それなりの味がある。蓑虫や蜂の子の、グニュッと来る感覚も、納豆のヌルヌルと同じで、慣れの問題だ。毒ではない。

イナゴを食べていた頃から半世紀以上経つ。その間に、食習慣も大きく変わった。子供の頃嫌いだった、タマネギやネギのぬるりと出て来る食感も、臭いゆずも、今や大好物だ。

だから今、あれだけ好物だったイナゴだが、「どうぞ」と出されたら、食べる決心をするまで、相当、時間がかかるにちがいない。

FAO によると、食べられる昆虫は、少なくとも1900種類はいるそうだ


親の早世

2013年05月14日 | 占いばなし

勘三郎、団十郎と、大名跡が相次いで早世し、これから歌舞伎界はどうなるのだろうと、心配されている。
物事の実体と推移をよく観察し、見極めないで、「変化」のみに反応する人(マスコミ)が、こういう騒ぎかたをする。

確かに、森の大木が一度に何本も折れると、森が無くなったように感じる。しかし、森には様々な木々が棲息しており、大木が無くなると、たちまち枝葉を広げて繁茂し、大樹に成長していく。

街に威容を誇っていた邸宅も、取り壊され、しばらく経つと、そこに何が建っていたのかさえ忘れてしまう。
機関車や電車が廃止となると皆騒ぐが、新しい電車が走り出せば、昔を懐かしむ人も、便利に利用する。

一つの時代に目を奪われると、次はもう来ないように思えるが、俯瞰して見れば、河の流れが耐えるわけではない。
歌舞伎界も一人の役者で成り立っているものでもないし、時代が求めるものも変わっていく。

世襲が基本の歌舞伎のような世界こそ、世代交代は早いほうがいい。
伝統を守りながら、伝統にとらわれない、当代の芸を打ち立てるには、後継者が、自分で悩むことが何よりも活性剤になる。

親の早死に子の出世
占いで考えても、親が早死にした人は大物になる。親の早死には、占い的にはエネルギーが偏っているためだが、環境論で考えても、自分で何とかしようとする覚悟と自由が生まれる。

生きている親にうるさく言われても、親の思いが伝わるわけではないが、親がいない不安から、却って、自ら熱心に考え学ぼうとするようになる。
それでいて、伝統に従うことを目指すわけだから、言われた型の模倣ではなく、本質的な伝統の心に目覚めることになる。

門外漢の素人には、歌舞伎の伝統の何たるかは解らないが、何の世界であれ、伝統とは、形ではない。形を生成する「あり方」そのものだ。
もう一つ言えば、昔から「三代目に出る」と言われる。勘三郎、団十郎とも、先代は名人、天才の誉れが高い。期待してもよさそうだ。

環境が変化することには、誰でも不安が先立つが、白紙から始めるほど楽なことはない。何であろうと自由に描けるのだ。
今、日本は、と言うより、世界は大きな岐路に立っている。今までの環境が失われることを恐れ、抵抗しているゆとりは無い。また、抵抗する者は大転換の大河に呑み込まれ、押し流されてゆく。

今のような大転換の時代は、過去を捨て、白紙で始める者こそが大きく成長する。日本の場合、工業はわずか50年過去の成功体験を一掃しなければならないし、農林業も全く白紙の大地に踏み出さなければならない。
日本の伝統とは、工業も農業も、2000年前の開拓精神から営々と築いたものであったと改めて思い起こし、王政復古ならぬ瑞穂復古の大号令で、世界に打ち出すべき時がきた。


ペテン師

2013年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム

小学校の頃、子供は飲んではいけない酒やタバコを、何で生産量として社会の時間に習うのか不思議だった。
そんな悪い物が世の中にあるのは知っているが、それが何で、各地の特産品として、良いことのように先生が教えるのか、理解できなかった。

大人になって、国家の収入になることや、それで食べている人もいることが解ってからも、子供に与えてはいけないような物を、産業として大々的に推進して良いものか、理解に苦しんだ。
収益が上がるとは言え、害になる物を国が売るのなら、逆に、なぜ、麻薬を禁止し取り締まるのか、なおさら不条理に思えた。

麻薬や覚醒剤はけしからんと思っている人は、酒と麻薬は違うと程度問題で説明するだろうが、身体を蝕むことはかわらない。
麻薬を認めないのなら、酒や煙草も禁止すべきだし、酒や煙草を認めるのなら、麻薬も個人の自由であり、錯乱行動の予防のために、一定の施設などの条件で使用するようにすれば良い。

酒による錯乱行動は、麻薬と大差ない場合もあるが、元来、日本は酒に寛容であり、「酒の上のこと」と言えば許された。
当然のことながら、麻薬にも寛容で、覚醒剤なども戦前までは薬品として奨励されたこともある(ヒロポン)。

戦後になって、それまで、日本中に当たり前に自生していた芥子や大麻を見た進駐軍が驚き、慌てて規制した。禁酒法までやった国の価値観から見れば、とんでもない事だったのだろう。
ところが、禁酒法が逆効果だったように、当のアメリカではむしろ、半ば公然と売買されている。

キリスト教の価値観に征服され、生まれた時から、「麻薬は大罪」と吹き込まれて育った戦後の日本人だが、国が麻薬ではないと言えば、酒や煙草には何の疑問も持たない。しかも、国が麻薬と区別していること自体が、ご都合主義のペテンであることにも気がつかない。

言いたいことは、
麻薬を認めろと言うのでもなければ、酒や煙草を禁止しろと言う話でもない。
善悪の基準が、国や利権集団の都合に左右される側面があることを考えれば、真面目で善良な国民でいることだけが、人として正しい生き方とは限らないと言うことだ。

言論の自由の国であっても、われわれは簡単にペテンにかかり、洗脳されるものである事を、忘れるわけにはいかない。
今や、原発安全神話を、信じていた人ほど、怒り狂っているが、当たりの良い宣伝にほだされ、事故の惨状に激昂し、冷静に状況を判断しない。その感覚的生き方こそが、ペテン師のカモと知るべきだ。

「母さん助けて


蛇が出る

2013年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

3年前、中国の「沖縄解放論」は、沖縄自身が発言する問題で、日本政府が反論すれば、中国の思うつぼだと書いたのだが、
今回、ついに人民日報で揺さぶりを掛けてきた中国に、安倍政権はまんまと引っかかって、抗議した。

すると、中国はここを先途と責め立て始めた。
「日本が(ありもしない)中国脅威論を騒ぐのは、盗んだ沖縄を奪い返される心配をしているからだ」と言う論法で、沖縄略奪論を既成事実化し、尖閣論点をすり替えようとしている。

安倍政権のみならず、日本人の腹や度量が劣化してしまっていることを、中国に見透かされている。

日本人の、外交、宣伝下手のコンプレックスから、「主張する外交」と称して、今度は、何でも口に出せば良いに変わってしまい、何時、誰に、何を言うべきかが、全く解っていない。

中国は国の主張を、国民のデモの形で正統化する。つまり、政府ではなく、「実際の」国民が主張していることが説得力だと考える。
この論を逆手にとれば、沖縄のことは沖縄の住民の意思こそが「実際」であり、説得力を持つ。

沖縄の帰属は、沖縄県民の意思であり、沖縄県民こそが主体として声を上げるべき問題だ。
日本政府が「論ずるに値しない問題」として無視し、沖縄が地元の意見として中国に抗議すれば、中国がとりつく島では無かっただろう。

そして、一方で政府は、この場は沈黙しておいて、国際議論の場で中国の不穏当な動きの一つの論拠にすれば良かった。
安倍政権は、前回の慰安婦問題の時もそうだが、言わずもがなを口に出し、藪から蛇を引き出している。

一白はムードメーカーで、素早いのは取り柄だが、本質で勝負する度量が無い。満開の桜が散った後、夏の盛りが去った後、何が残っているかが心配だ。
今年はへび年。ウジャウジャ蛇が出てきていなければ良いのだが。


守れない

2013年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、北朝鮮が威嚇したことで、ようやく原発テロ訓練を始めた。
「国民の皆様に安心してもらえる効果があった」と言うように、所詮、パフォーマンスだ。訓練報道を見て、却って不安になった。

原発テロは、大量殺戮を意図する、紛れもない戦争だ。
人質事件や銀行強盗ではない。手段を選ばず、原発を破壊することだけが目的だ。人が近づいて破壊をすることもあるかもしれないが、北からの通常ミサイル一発でも、核爆弾なみの効果が出る。

軽飛行機やハイジャックなど、もっと簡単な手はいくらでもあるし、北のオンボロ潜水艦や、漁船から上陸し、離れた位置から迫撃砲を撃ったり、近づいてバズーカ砲を撃つこともできる。

ああいう訓練を見ていると、一体、北やテロリストのつもりで、原発破壊を真剣に考えたことがあるのだろうかと、イラ立ってくる。
ネズミ一匹でも危険に陥るような、無防備な施設は、攻撃する側から見れば、あまりにも簡単だ。

カメラ付きラジコン飛行機に爆弾を積んで、電源に体当たりさせるつもりなら、今日にでもできるだろうし、そこまでしなくても、大型のタコから、ダイナマイトを落下させるのも簡単だ。

とにかく、本気で原発を破壊しようと思えば、中学生でもできる。
今の原発は、性善説のヌーディストクラブだ。
活断層云々も、現実性の無い枝葉末節で、推進・反対両者の駆け引きに過ぎない。

原発は受け身の核兵器だ。設計段階から先ず鉄壁の防御を考えるのが大前提で、地下千メートルぐらいの所に設置できなければ、始めから造ってはいけない代物だろう。


何が便利

2013年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

40年前、正確な記憶は無いが、寺町二条界隈の小さな家具屋で、収納棚を買った。
縦90×横60×奥40ぐらいのボックス二個だが、当時は組み立て家具というものは無かった。歩きでもあったし、配達してもらえるか60代のおばさんに聞くと、こころよく「はあ、はあ」と二つ返事で、7km程離れた引っ越したばかりの自宅まで配達してくれることになった。

翌日、待っていると、チャイムも無かったので、「ごめん下さい」と、戸が開いて、少し背中の曲がったお爺さんが立っている。こちらも若かったので、年寄りの年の頃がよく分からないのだが、70歳前後のように見えた。

「きのう買わはったお品、お持ちしました」
「あ、ありがとうございます」と言いながら、音がしなかったので車を遠くに止めたのだろうと思いながら表に出て、唖然とした。
自転車の荷台に二個のボックスを重ねて、そのヒモをほどいている。

初夏の炎天を、背中の曲がった人が、この巨大な荷物を載せて7kmも漕いで来たのだ。
何よりも、配達を頼んだことを後悔した。こんな事なら、頼むんじゃなかった。

どう言えば良いのかも分からなくなるほど恐縮するのだが、お爺さんは、怒ったように「どないも、あらしまへん」と、腰のタオルで汗を拭きながら、荷物を降ろすと、その足で帰ってしまった。

近頃は自転車ブームで、年寄りもドロップハンドルで、ツーリングしているが、まさか、こんな巨大な荷物を運ぶ人はいないだろうし、70歳ぐらいで背の曲がった人も見かけなくなった。

温故知新
40年前でも、配達と言えば車に決まっていた時代だ。にもかかわらず、自転車で運んできたのは、きっとこの家具屋さんにとって、当たり前のことだったのだろう。
この人が仕事を始めた頃と言えば、更にその半世紀前、今からほぼ1世紀前の大正末期、昭和初期の頃だ。

この頃の商家の風景は、今では想像もできないが、江戸の雰囲気が濃厚に残っており、今でも地方に行けば時々ある、間口の広い木造の柱の前に、今はサンシェードと呼ぶ暖簾が張られ、そこに当時の文明の利器である自転車が出入りしていた。

自転車は、大八車と共に今の自動車と同じで、あらゆる運搬に使われ、商いは自転車が必需品と決まっていた。終戦直後でも、自転車で運送屋を始め、後に大きな運送会社にした人もいるぐらいだ。

だから、自動車全盛時代になっても、あの家具屋さんは、自転車をつらぬいていたのかも知れない。大きな荷物は運送屋に頼むとしても、タンス一棹程度なら、自転車で充分だったのだろう。
自転車なら、駐車場も要らないし、ガソリンも要らない。とにかく頑張って漕いでいれば目的地に着く。居眠り運転もできないし無公害だ。

近年、駐禁が厳しくなり、運送屋さんも、自転車やリャカーに積み替えて配達している。そこまでするなら、街そのものの構造から変えて、LRTなどの公共交通を中心に、貨物列車を活用し、超小型車や自転車によって人間に優しい街にすべきだろう。
車に慣れてしまっていると、車ありきで、却ってヤヤコシイ生活から逃れられなくなっている。


おしゃれ

2013年05月09日 | 兄弟関係

中国の独善言動を見ていると、やっぱり中国は長子だと再確認する。
弟妹型が、環境や流行、他人の空気に敏感なのに対し、手本が無い環境で育ち、自分で考えて行動しようとする長子は、独善的だ。
周りがどう変わろうと、先ずは自分の原理原則をあてはめて考える。

ファッションセンスにしても、流行に敏感なのは弟妹型で、長子は頭が固く、オーソドックスに流れる。
親のお仕着せで育った長子は、着るものを考えるとき、流行を観察するより、約束事や情報、これまでの自分のパターンから考える。概念外のパターンに対して、弟妹型のようには融通が利かない。

弟妹は上の子のお下がりなど、親から無関心で育つと、取り合わせを自分で考えるし、上の子のオシャレ談義に影響されるので、周囲や流行に敏感になり、トータルファッションを考えるセンスが身につく。長子が目に見えない原理原則を考えるのに対し、弟妹型は目に見えるもので判断することの表れでもある。

ただし、弟妹でも、ゆとりのある親がそれぞれの子にお仕着せていた場合は、長子と同じになるし、末っ子でも、たった一人の女の子や男の子の場合は、親の関心が強すぎることと、見習う上の子がいないことで、やはりセンスは悪くなる。また、中間児の場合は人の意見を気にする人も多い。

無論、ファッションはまさにセンスだから、この他の様々な要因があるので一概には言えないが、何ごとであれ、長子の独善性と弟妹の融通性の違いはこんなことにも影響するという話だ。

ファッションセンスは、兄弟関係以前に、地域性や家業、教養や体質で基本感覚が大きく違ってくる。したがって、この前提が同じ環境であれば、このような兄弟関係の差も現れる。


祈るのみ

2013年05月08日 | 星の流れに

木星がカニ座にあと11度に迫った8日、
中国は、北朝鮮への初の経済制裁を打ち出した。
一方、同じ日、中国はついに、党を代弁する人民日報で、沖縄も日本に盗み取られたものだと言い出した。相変わらず「言うのはタダ」の、掛け値商法だが、いずれにせよ、中国がムズムズと動き始めている。(黙っていられない
木星がカニ座に来れば、さらに「何らか」の行動に出るだろう。

この動きの中、心配なのは、むしろ日本の方だ。木星は6月26日にカニ座入りし、その直後に、参院選が始まる。

今までの中韓の反日言動は、彼らの言う右傾化に、日本を追い詰めてきた。中国がこれ以上の行動に出れば、日本は間違いなく「キレる」。
もちろん、木星の「膨張」行動で、その反動を受けるのは中国自身だが、その反動が何によるものかが問題だ。

まだ、ピークには達していないものの、暴走中の中国が、「やり過ぎ」による峠を越える時が近づいている。木星カニ座は、その引き金になるだろう。
これからの木星カニ座の一年は、木星と冥王星が180゜天王星90゜。そこに、12月から火星が天秤座に8ヶ月・・・
しかし、それでも、土星と海王星に吉角の中国は、無問題と錯覚する。

木星や天王星は、去る時が微妙
木星が来ればどんな現象が起こるかは、今現在、双子座に木星が来ているアメリカを見れば解る。景気は持ち直し、TPPも日本参加で動きだし、同時に、同盟国との関係も強化した。
これは、アメリカ自身による、状況改善意欲の結果だ。

この、木星による積極改善の直後には、必ず反動がある。いかに吉星でも、酒を飲んで良い気持ちになった後には、請求書が回ってくる。
木星が自分の星座に来れば、個人なら地位が上がったり、結婚したりするが、その変化による新しい負担が生ずるから、急上昇の後は、場合によっては失速で墜落する。

このところのアメリカの木星現象も、7月以降、請求書が来るだろう。飲み屋で多く飲めば、請求書はそれだけ多く来る。アメリカが請求額に驚いている暮は、日本には火星が来る。
火星による日本の苦境は、発熱もあれば事故もある。災害や政経の病気もあれば、木星カニ座の中国とぶつかるような事故もある。

こんな事を言う時は、これが現実にならないことをひたすら祈っている。星の動きを皆が知っていれば、大難も小難に替えることができるかも知れないのだが、こんな話をしても笑われるだけだ。
こういう時はただ、日本人の賢明さを信じるしか道はない。


美辞麗句

2013年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム

近年、日本の総理大臣は軽くなり、マスコミは政見や政策より、重箱の隅をつつくような日常の細かい失敗ばかりを騒ぎ立て、政治と政治家を矮小化して、つまらないもの無意味なものにしてしまった。

それに同調する国民も国民だが、、支持率低下でめまぐるしく総理大臣が入れ替わった。日本の国民意識の中で、総理大臣は年間当番制が当たり前になり、何かあればとにかく「辞めろ、辞めろ」が行事になった。

こうしたムードが生み出した、「バカ総理」は、鳩山は次元が違うとして、「三バカ大将」に祭り上げられたのは、森、麻生、菅だろう。
ジャーナリズム消滅後のマスコミが創りだした、「バカの偶像」だ。
態度や言葉尻だけに、集中砲火を浴びせ撃沈した。

この3人は、自動車人間で言えば、揃いも揃って「エンジン」だ。
エンジンは形振り構わぬ「行動」で解決しようとする。ムードや印象より、結果重視だ。だから、行動中の「構え」が疎かになる。

「エンジン」は人気芸能人が多い。型にはまらぬ態度が、見て楽しいからだ。受けること、目先の結果に集中するから、飽きさせない。
この特性を、マスコミにクローズアップされてしまった。

確かに、話題にするには面白いネタを、次々と提供した。
しかし、それで能力が判定されたのでは、政治はできない。

政治、政見の内容を論ずること無く、無能と決めつけ撃沈してしまったのでは、戦艦大和も本来の能力に活かされることもできない。
もっとも、気の毒なことに「エンジン」は「好印象のもっともらしさ」と真反対だ。美辞麗句戦闘機の護衛が無い大和はあっけなく沈んだ。

大和は無能だったわけでは無い。生まれた時代が悪かった。

取り戻す」「奇人変人


虫の世界

2013年05月06日 | 兄弟関係

今日は暖かく、うかつに保温下着を着て出かけて、汗ブルになった。
明日は一転、また寒いそうだ。
以前、「虫人間」でも書いたが、寒暖の差「3度」は、人間の感覚、感情、行動を変える。

何度かではなく、何度「変化した」かが、人間を動かす。
人間は、人間自身が思っているより単純だ。ほんの少し冷静に考えれば解るようなことを、一瞬の感覚に惑わされ、自分でも後で不思議な程、「バカなこと」をしてしまう。

衝動買いも、振り込め詐欺も、一瞬の「不覚」に陥ることで起こる。
「不覚」とは自覚を失うことで、正しい認識による思慮より、「感覚」に囚われて判断を誤る状態だ。

しかも、感覚にはすぐ慣れるから、良い状態も悪い状態も気にならなくなる。だから、感覚に敏感なのは、変わった刺激を受けた瞬間だけだ。
敏感さは、危険から身を守るために備わっている反応だろうが、刺激に過剰反応すると、むしろ、危険を招くことになる。

不覚を取った人のことを、みなバカにするが、むしろ、バカなことをするのが人間の本来の姿なのだろう。
集団としての人間は、極めて「変化」に敏感だ。

日銀の思慮ある金融政策に、一向に反応しなかった株価が、無分別な、「どんどんお札を刷る」の一言に反応した。
市場が求めるものは、常に「サプライズ」だ。
刺激のある変化で、思慮あるマンネリではない。

国も感情で動いている
互いに牽制しあいながら、知識教養で思慮深くなった日本でさえ、こうなのだから、二者択一で動く中国のような社会は、表向き押さえ込んでいても、ちょっとした刺激で、もっと激情的に動く。(日本の株価に火を付けたのも外資だが)

コントロールの効かない韓国のような社会は、ちょっとした変化で、蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
何か起こった時(常に起こっているが)、とりあえず大声で走り回る韓国社会やマスコミの様相は、兄弟関係の末っ子の典型だ。

答えが解らない時、考えないで、信号弾を上げて他人の反応を見る。
そして、周囲の反応次第で、都合の良い意見を採り上げたり、実力者に頼る。自分を捨てて、他力を利用する。

韓流の魅力とは、末っ子の愛らしさだ。冷静に考えれば有り得ないようなことを、笑いや媚びで許してしまう。
笑いや涙は、「変化=一瞬の刺激」によって起こるもので、論理の成立しない世界だ。「らしさ」「かわいそう」で直情を刺激し、思考停止させられる。実力者の後にかわいげで従い便乗し、自分が本家だと信じ込み自慢する。

長子中国には、こんな可愛げは無い。直情的でありながら、と言うより、直情的だからこそ「感覚=見たまんまの事実」を嫌い、独善的な原理原則の立前を叫ぶ。そして、激情的にそれを実行して、後に引けなくなる。

一人っ子日本は、常に内省的で、相手の感情行動にも自分が悩み込んでしまう。反省して反省して、ガマンしてガマンして、ある日、突然ぶちぎれる。ぶちぎれた一人っ子は、手加減を知らない破れかぶれの突撃をする。

いま、解らなくて、悩んでいるのは、日本は既に「キレた」のだろうかと言うことだ。


取り戻す

2013年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

連休のニュース。駅で帰省から帰ってきた中年男性が、
「親が寂しがっているので、帰って親孝行できた」と話していた。

大都会で働かなければ生活できない日本になって、百年近くになる。
都会に出ることが憧れになったのは明治維新以降のことだが、中央集権の立身出世の場が東京であり、商売も、権限集中でやりやすい東京に集中し、大阪さえも活力を失った。

ものごとは、「極まれば転ずる」。
 ぼーくの恋人東京へいっちっち~どうして東京がそんなにいいんだろう」(1959)の歌の後。60~70年代に東京一極集中が進んで、マスコミの発達とともに、日本中が東京化した。

異端、異物を排除する均質化は、農場も牧場も一つの病害虫で一気に亡ぶ。人間社会も全く同じ理屈だ。神の智恵であるDNAは、無限の多様化を意図しているが、その逆を行う愚かな集団は、いずれ神の怒りに触れて亡ぶだろう。

日本の衰退は、東京一極集中の60年代に、既に始まっていた。
江戸時代は、京・大阪・江戸の違う機能がそれぞれに影響し合っていたからこそ発展し、黒船にも対抗しうる底力を育んでいた。

しかし、今の日本は、言葉、情報、生産、消費、すべてが単一化されている。マスコミも、ネットも異端を叩き、出る杭を打とうとし、常識を超越した見地で行動しなければならない政治家までを、凡庸な「見識」で叩く。会社では凡庸の塊が権力を握り、あらゆる冒険的アイデアを排除する。

一極集中、均等化で、日本は死んでいることにさえ気づかない。
死人が、生きている者のように行動するのが、ゾンビだが、ゾンビの大活躍は、やがて引き返すことのできない壁にぶち当たる。
戦前、大正金融恐慌、震災、大不況の後、ブロック経済、満州建国で、日本中に活況かのような高揚感があった。

いま、経済対策、経済協定は、とりあえず結構なことだが、天王星84年周期を考えると、かなり、ハラハラドキドキのサスペンス歴史ドラマだ。

他の対策も大切だが、おそらく日本に最も重要なことは、権力と経済の分散であり、例えば、むしろ関西に遷都し、東京をニューヨークのような商業都市として残す事なのかも知れない。
そうで無くても、誰かが言うように、皇室を京都に戻すのも一つの活性化になるかも知れない。
もっと根本的に日本パワーの底上げを図ろうと思えば、どうしても連邦制だ。

地産地消で各地に経済圏ができれば、帰省ラッシュは無くなり、親子三代が共に暮らす生活も戻り、道徳教育のような変なことをしなくても、自然に道徳は行き届く。
「親に顔を見せに」帰らなくても、家族も地域も暖かい社会に戻すことが、「美しい日本」を「取り戻す」ことなのではありますまいか。


奇人変人

2013年05月04日 | 占いばなし

YouTubeで、たまたま唐獅子牡丹を作詞作曲した、水城一狼という人の本人歌唱を聴いた。流石に自分の歌だけあって上手い。歌に込めた思いも伝わってくる。しかし、やっぱり高倉健で無ければ唐獅子牡丹にならない。

カラオケなどの模範歌唱の歌手は、どれも実に上手いが、悲しいかな売れる歌手ではない。
歌手としての上手さとは、正確に綺麗に歌うことではなく、その人でなければならないものを聞かせることだ。

音符ではなく、歌い手の存在に共鳴する時、聴き手の心が動く。
俳優では、高倉健が2月16日の水瓶座。石原裕次郎が12月28日の山羊座。どちらも、上手いとは言えないが、存在感が心を打つ。

山羊座も水瓶座も、元来の支配星が土星で、「本質」を表す。
水瓶座はやや受け狙いで表面的に流れるが、人好きする。
山羊座は土星そのもので、人間の潜在的な感情「哀切」にうったえる。山羊座の全身全霊の真面目さが、そうさせるのだろう。

水瓶座の歌手は愛されるが、山羊座の歌手は惚れられる。そんな違いがある。どちらも世相を創るぐらいの影響力がある。
人気歌手も星座により、カラーは様々だが、いずれにしても「普通ではない」何かを持っている。

何ごとにおいてもそうだが、天才とか、世の中を動かすような人は、どちらかと言えば、「醜いアヒルの子」だ。
上等、優秀、良質のような、世間の基準から外れている人だ。
世間から外れているから、世間に無くてはならない価値を秘めている。

夜には何もない砂浜も、たった一粒の砂金が、朝の光に輝けば、砂浜すべてが特別に見えてくる。
価値の均質化で、世の中が停滞する時、「醜いアヒルの子」こそ救世主になる。

何時の時代も、集団や時代の救世主は、落ちこぼれや変人だ。
言うことの無い優等生は、そのこと自体が危険な存在であることを知るべきだろう。政治家もしかり。


古来難所

2013年05月03日 | 探訪・紀行

今日は、連休の渋滞で、先日、「大関越え」で書いたばかりの「蝉丸神社」の裏の、名神大津トンネルで事故が起こった。
大きな怪我人が出なくて、とりあえず良かったが、この大渋滞に巻き込まれた人は災難だ。

Photo
蝉丸神社の裏、名神高速道路京都方面を望む
この下が大津トンネル。トンネル上の道から
(同じ時の写真)

高速道路のトンネルは数多くあるが、これまでも大きい事故が起こっているのは、昔からの交通の要所である場合が多い。
例え高速道路になっても、やはり、高度や距離、周囲の景色など、複合的に影響し合う「難所」なのかもしれない。


メーデー

2013年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

5月と言えばメーデー。救難信号も「メーデー」と言うのはなぜだろうと辞書を見ると、フランス語の「venez m'aider」から、「m'aider」が「Mayday」の英音になったらしい。

5月1日のMayDayは、元々あった5月祭から、19世紀の労使休戦の日としたのが始めらしい。冬至の鎮魂祭をキリストの誕生日にしたのと、ちょっと似ている。

労働者の祭典としてのメーデーは、産業革命パラダイムに生まれた「時代の祭」だ。資本家に対する労働者の図式も、産革パラダイムに生まれたもので、大転換の今、メーデーも意味が変わりつつある。

何がどのように変わるのか、視点によって違うから一概には言えないが、資本家と労働者の対立構造のような概念では、少なくとも日本では「祭」ができなくなっている。仏教徒がクリスマスを祝うような時代なのだから、メーデーも既に相当変わっているようだ。

そんなこんな、全部くるめて、確かに時代の大転換が進んでいる。
労働者が資本家になれば、労使の休戦日は意味が無い。労働者は存在しても、単純な被害者ではない。
ほんの50年前は、対立構造の中で、「立ち上がる労働者」がカッコ良く見えた。

しかし今、同じ図式でものを言う人が気の毒に見える。あるいは、何でもかんでも、対立構造にしようとする人が情けなく見える。
単純な敵がいなくなってしまった時代。必然的に大転換が始まる。

ところが、すべてが労働者だったはずの中国のような国が、産革パラダイムに参加したことで、逆に、古典的な労使の構造を生み出した。国民は共産党に搾取されている。

しかも、国家という単一の使用者だから、極めてハッキリした図式だ。この解りやすさは、外に対しても、帝国主義の姿を解りやすく再現する。さらなる富の拡大のために、富を軍備につぎ込んでいる。
情報を遮断して国民を洗脳し、殖産興業、富国強兵、四面楚歌・・・
どこかで見たような・・・完全に周回遅れのゾンビだ。

共産党幹部は、中国人民から富を吸い上げ、国外逃亡しようとし、軍人は兵器を手にして興奮が止まらない。
1世紀前には新聞とラジオしか無かったが、今はテレビとネットがある。
経済混乱などちょっとしたきっかけで、情報管制が破れた途端、ゾンビの膿疱がパンクする・・・ 世界中が、ウミだらけの大混乱だ。

「メーデー、メーデー、メーデー」