脳科学によると、深い思考や着想の時、強い感情が起こった時など、シナプスの間を、大量の信号が一気に流れることがあるという。
思考も感情も同じように、大量の信号を流すということは、思考に偏る人が感情を失い、感情に偏る人は思考を失うことがあるのかもしれない。
学者や、ことにコンピューター技術者の中には、全く無表情に話す人がいる。
逆に、血眼になって怒鳴り散らしたり、泣きわめく人、宗教を盲信する人の多くに、論理的な思考ができない人がいる。
思考も感情も、同じ脳嵐の現象でありながら、相反する行動になり、しかも双方が相容れない傾向がある。
という事は、脳信号の大嵐を、何に使うかによって、思考力や創造力に差ができるという事かも知れない。。
おそらく、日常受けるストレスが蓄積すると、その発散のために脳信号の嵐が起こるのだろう。
その時、それを思考に向けると、アイデアや論理の昇華になり、感情に向けると、激情行動になるということだろう。
ゆるゆるの感情
一時の激情に駆られると、人生どころか国運までも誤る。
激情に創造性がないのは、せっかくの脳信号の大量放出を、思考、創造に使わずに、消費してしまうからだろう。
泣いたり恨んだりする、感情発散を良しとする文化は、創造と発展を失う。「葬式に泣きもしない」と批難し、プロの泣き役が存在するような社会は、万古不易を信じ、変化や進歩を嫌う。それでいて、変化が起これば、怒声を上げて走り回り、決して、沈思黙考はしない。
日本に武士道が残っていた、ごく最近まで、「男泣き」という特別な言葉があるぐらい、「男は泣くな」が当たり前だった。ところが、近頃の「男性」は、手放しで泣く。
「男」が男性に、「女」が女性になってから、性による文化的抑圧がなくなり、泣かずに耐えて対策を思考する「男」という役割がなくなった。上司に叱られて、泣き出す新入社員に困った話をよく聞く。
かと言って、女性は泣かなくなったかと言えばそうでもない。
多少は減ったかも知れないが、やはり泣く。
日本中が、泣いて癒し合ったり、ネットで罵倒したりしているうちに、日本の創造力は減退していった。
「泣いても何も始まらない」と言う言葉がある。まさにその通りだ。
泣けば脳の発散にはなるが、論理も創造も生まれない。
泣きたい時こそ、創造のエネルギーが満ちている。
失敗は成功の元、終わりこそ始まりだ。行き詰まった時こそ冷静に考えるチャンスなのだ。
近頃は、「泣くな」と言う事さえはばかられる。心のケアの時代だ。
しかし、日本人の美徳、「堪える」の中には、巨大な潜在力があるのかも知れない。
「泣くな!」 「喚くな!」 「考えろ!」