魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ごちそう

2013年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム

14日のニュースは、昆虫食の話題で盛り上がっていた。
国連食糧農業機関(FAO)が、人口爆発の食糧難に備えて、昆虫食を提案しているそうだ。
レポーターが実際に食べて、「なるほど」のようなコメントをしていたが、全体には「ウェー」の漂うニュースだった。

これまでも、中部地方では虫を食べると、下手物食いの話題で面白がっていたが、自分が食べないからと言って、馬鹿にしたりするのは、異文化を野蛮人と見なす、それこそ野蛮人の発想だ。

野蛮人とは、無知で、自分の世界しか理解できず、その世界からしか物を見られない偏狭な視野で暮らす人々のことだが、文明の装い、文明の利器を使って暮らしていても、頭の中が、その偏狭な野蛮人のままの人々がいる。
急速なグローバリズムで、知識や文明の利器を手にしたその野蛮人が、自分の価値観だけで、他を誹謗、攻撃するから、世界はなおさら混乱する。

FAOの人が、「食べ物は慣れの問題で、20年前は生魚の鮨を食べる人はいなかった」と言っていた。まさにその通りで、文明文化に視野の広い人にとっては、文化的忌避は考慮に値しないバカげたことで、日本人が、豚肉を食べないイスラム教徒を不思議に思うのと同じ事だ。

ごちそう
幼い頃、山奥に預けられていたので、イナゴの佃煮が大好物だった。
食糧難の頃でもあり、流通環境からも、牛肉や豚肉など見たこともなかったし、ブリキ缶を担いで魚を売りに来るおばさんの魚も、ほとんどが塩漬けや干物だった。

どうやって料理してあったのか記憶にないが、育ち盛りの子供には、タンパク質の豊富なイナゴは、問答無用の誘惑で、これも大人の目を盗んでは食べていた。それほど美味かった。(留守小僧
どんな味だったかは良く覚えていないのだが、口に入れて咀嚼する時の、至福の記憶だけは残っている。

学生の頃、青森出身の友達は、栗や南京豆のナッツ類ばかり好んで食べていた。三内丸山古墳で縄文の栗林が発見されたニュースを聞いた時、『あ、これのDNAだ』と思い当たった。

その友達が、飲もうと酒を持ってきたのだが、酒の肴に驚いた。
市販されているものだから何の不思議もないのだが、「わざわざこんな物を選ぶか?」と、嗜好の違いに感動した。

沢ガニを姿のまま乾燥させたもので、バリバリとかじると、足の爪が口の中で突き刺さる。それでも構わずかじりながら一杯やると、干しエビをかじるようで、またひと味違う食感がある。不味くはないが、自分では買わないだろう。だから、その時まで、そんなものが売られていることすら知らなかった。

昆虫だろうが蛇だろうが、先入観を捨てて、食べてみれば、それなりの味がある。蓑虫や蜂の子の、グニュッと来る感覚も、納豆のヌルヌルと同じで、慣れの問題だ。毒ではない。

イナゴを食べていた頃から半世紀以上経つ。その間に、食習慣も大きく変わった。子供の頃嫌いだった、タマネギやネギのぬるりと出て来る食感も、臭いゆずも、今や大好物だ。

だから今、あれだけ好物だったイナゴだが、「どうぞ」と出されたら、食べる決心をするまで、相当、時間がかかるにちがいない。

FAO によると、食べられる昆虫は、少なくとも1900種類はいるそうだ