魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

復興時代(2)

2011年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

自粛ムードは、必ずしも誹謗中傷だけのせいでもない。
津波映像のショック、その後の惨状をみている内に、日本中が被災者になったような心理の、疑似被災者になっている。

観光客や宴会のキャンセルも、自粛というより、本当に、そんな気になれないからだろう。
しかし、ここが当事者と疑似体験者の違いだ。

どんな悲劇も、当事者にとっては悲劇ではない。立ち向かわなければならない現実だ。例え、泣き叫んでいる時でも、次には、どうにかしなければならない。

ところが、話に聞いたり、映画を観たりする人は、自分がしなければならない現実はないから、ただ、どっぷりと感傷に浸る。
それが、当事者以上に、落ち込む理由になる。

いつも思うのだが、
不幸や苦労というものは、本当に苦労した人は苦労を感じているヒマがない。だから、後々も「苦労を語る」事は少ない。
ドラマチックなスポ-ツの試合について、当の選手達はあまり語らない。当事者にとっては物語ではないからだ。

苦労談を語る人の多くは、その場にいたかも知れないが、克服に全身全霊で、立ち向かった中心人物ではなく、応援団や参加者だ。

苦労談を聞く時は、その話の登場人物を、よく注意して聞く方がいい。
迷惑を掛けた人や、ひどい仕打ちをした、話の引き立て役の方が、案外、本当のヒーローだったりするものだ。

当の選手より、観客の方が、「戦ったような気になる」
不幸な出来事は、当事者より他人の方が落ち込む。例えば、海外の人の同情が大きいのに、むしろ日本人が驚くようなものだ。
情報は伝えられた人の中で増幅し、頭の中で、勝手に尾ひれが付く。

被災地の人々が、とてつもない現実を前に、それでも、気持ちを奮い起こして、何とか笑顔で立ち直ろうとしている時に、

被災者でもない人間が、勝手に落ち込んで感傷に浸り、「元気になれない」などと、自粛していて良いものだろうか。

直ちに日常を取り戻し、例えその気になれなくても、元気いっぱいの笑顔で、
「俺たちは元気だぞ、大丈夫だぞ、何時でも、何でも言ってくれ」と、被災者を安心させることが、被災してない日本人の義務ではないだろうか。

自粛で麻痺した、阪神大震災の教訓から、今回は「自粛するな」の声はあるが、そんなものでは足りない。
空騒ぎでも、派手に金を使わなければ、日本は凍死する。

「眠るな、眠ると死ぬぞ!」


復興時代(1)

2011年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

終戦直後の童話には、こんなのがあった。うる覚えだが、
・・・
焼け野原になった街で、おじさんは雨風を防いで寝ようと思う。
焼けてしまった我が家の板切れを集めて、掘っ立て小屋を作ろうとするが、釘がない。
でも、あちこちひっくり返すと、曲がった焼け釘が次々見つかる。
ほらここにも、ほらこれも使える・・・

誰の、どういう童話だったか記憶がないが、この部分だけ、やけに頭に残っている。

敗戦時は、無政府状態で、焼け出された人達は、今の贅沢なホームレスより救いがなかった。焼け跡には本当に何もなかったからだ。
それどころか、暴徒が跋扈し、唯一残った土地まで奪われたが、誰も守ってくれなかった。

昭和40年頃まで、都会の金持ちと言えば、ヤミ成金や密輸業など、たいていは得体の知れない素性と、誰でも思っていた。

比較的新しい映画としては「麻雀放浪記」や「肉体の門」は、よく当時の雰囲気を出しているが、その後の映画では制作者が世代交代して、戦前戦後の映画には、全く現実感がない。

今、津波で被災した人達には、焼け釘も残っていない。
しかし、敗戦時と同じではない。曲がりなりにも食料があり、避難所があり、仮設住宅も建つ。暴漢に襲われたり、土地を奪われたりすることもないだろう。

第二の戦後復興と言うが
被災当事者は別として、今の日本人には、まだ居直りがない。
「あるべきものが無い」という発想である限り、保障問題や不手際の批判、失いたくない人達の利権問題など・・・

とても、戦後のような、「何でもやれる復興」の状況にはない。

終戦直後には、停電に文句を言う人も、一ドル360円に文句を言う人もいなかった。と言うより、言ってもどうにもならないから、世論にならなかった。一億総懺悔、一億総お手上げ・・・だった。

毎日の食料に追われる日々、権利を主張しても始まらない日本人は、それぞれが、明日に向かって歩き始めた。

今回の大災害の前で、日本人は自粛し、ボランティアに進んで参加し、あたかも、日本が一丸になっているように見える。
しかし、これは、「まだ大丈夫」の「ゆとり」で考えている。

自分は「ゆとり」があるから、困っている人のために・・・
という姿勢が、あるべき物がないと抗議し、しなければならない事まで自粛し、自分の持ち場を離れてもボランティアに行こうとする。

本当に、日本が復興の力を持つには、日本人一人一人が、「自分の事」に追われ、「不謹慎だ」と、他人を束縛する「ゆとり」も捨てなければならない。
「自粛」主張こそが不謹慎であり、無責任な「ゆとり」思考なのだ。

「不謹慎!」「非国民!」と、国家を信じる「ゆとり」思考で敗戦し、
何でもありの、アプレ、カストリ、デカダンの居直りの中で、日本は復興した。

「不謹慎」などと、「ゆとり」をこいていると、本当に足腰立たない事態になり、しかも、そうなると、他人を中傷していた人間ほどエゴむき出しの行動に走る。「自粛亡国

本当の復興を考えるには、終戦直後を洗い出してみる必要がある。


ほら来た

2011年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム

病床で騒ぎまくる、ありがた迷惑な見舞客は、帰れと言えばブチギレるから、有り難く受けて、後で、請求書が来たら無視するしかない。
と、心配していたら、絵に描いたように、お約束の行動に出始めた。
ぼんぼん

放射能で、空騒ぎをした挙げ句、また、日本に賠償請求しようと騒ぎ始めている国がある。(例のごとく、何の実害もないにもかかわらず)

肉食動物の「狩り」は、弱っている動物に食らいつく。

「渇しても盗泉の水を飲まず」
ゆすり、タカリを生業とする人の炊き出しは、
やはり、受けてはイケない。

ところで、
鹿ばかり食べているライオンと、鹿は、
どっちがライオンで、どっちが鹿だろう。


リメーク

2011年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム

原発事故、放射能漏れに対する世界のパニックは、日本人のように心理的な免疫がないからだが、
一向に解決しない状況に、日本人にも不安が広がり、そこに、外国から反射伝達される情報で、ますます疑心暗鬼になり始めている。

日本が放射能の被害にあったのは、本当は、これが2度目ではない。
戦後、世界中が核兵器開発にしのぎを削っていた頃、核実験による放射能汚染が世界を覆っていたし、具体的にも第五福竜丸事件もあった。

放射能雨の恐怖は、被爆体験のある日本人にとっては、毎日が現実の恐怖であり、その恐怖と怒りが、映画「ゴジラ」になった。

しかし、被爆体験のない世界の人々にとっては、「核」や「放射能」は、ファンタジーでしかない。

「ゴジラ」も、外国ではただのモンスター映画だったが、日本では、次々と怪獣が生まれ、それが、いつの間にか親しいものになり、つき合いようでは、つき合えるものとなった。

日本で、原子力に対する親近感や、放射能に対する寛容性が広がっていった過程と、平行しているのではなかろうか。

日本人が、放射能に対する恐怖を、理性で克服していった過程は、怪獣で育った世代は、無自覚で忘れているかも知れないが、
少なくとも、「怪獣」に対して、いきなり恐怖だけでは考えない。

しかし、世界の人々はそうではない。「放射能」と、聞いただけで、
「出たーっ!」と、よく確かめもしないで走り出す。

放射能雨の恐怖を克服する、当時の日本人の心情を知らないで、他人ごととして面白がっていた人々は、自分のこととなると、平常心を失い、

韓国のように、日本の話を思い出して、「出たーっ、雨に濡れたら死ぬぞー」と、おびえ、学校を休校にしてしまう国や。
放射能の解毒になると、塩を買いしめる商魂の中国。ヨードを飲むアメリカなど、理性のカケラもない行動に走った。

その、パニクリ人達が、思ったほどの大火事にならないので、
「日本政府は本当のことを隠している」と騒ぎまくると、絶えに絶えていた、日本人にも動揺が広がり始めた。

「ハリウッド・ゴジラ」でも、怖がる日本人はいる。

疑心暗鬼の悲鳴に、
日本はついに居直って、「ウルトラ7」宣言をした


発展途上

2011年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

2008年、ガソリンが猛烈な値上がりをしていた頃、80代の大企業の技術者OBの方と世間話をしながら、エネルギー問題の話になった。

「何で電気自動車が普及しないんでしょうね」などと話すうち、
「発電も自然エネルギーに傾注すべきですね」と言うと、
「原子力はどうなんですか」と言われ、
「自然エネルギーが普及しないのも、政財官の癒着で、問題を無視して原発路線をゴリ押ししているからですよ」
と、日頃の不満を言うと、寂しそうな顔をされたので、
ハタと、その方の出身企業が原発にも関連していたことを思い出し、『しまった!』と思ったが、
温厚で賢明な人柄なので、何もおっしゃらなかった。

後々、かなり気にしていたのだが、今回の事故で、相手が誰であれ、信念は言うべきだと、少し楽になった。(いくら信念でも、バカや噛みつきガメでは始まらない。逆に、そう思われたのかも知れないが)

そうとう昔、20代の頃、知人以上友人未満の付き合いをしていた原子力研究者がいた。クラッシックが趣味でヴィオラを弾いていたが、シンセサイザーにも造詣が深かった。この人も、極めて温厚で、何のてらいもなく、ひたすら、趣味と研究に没頭していた。
その後、原発関連の企業に入り、渡米して、しばらく手紙など来ていたが、音信が途絶えてしまった。

当時から原発反対だったが、それは政治の問題だから、その話題に触れることはなかった。

また、ある原子力分野の教授のもとに、新聞記者が取材に来たので、その教授は『素人に話して解るかなあ』と思いながら、それでも問われるままに解説をした。後日、記事を見ると、玄人でもこうは説明できないと思えるほど、要を得た記事になっていたので驚いたという。
研究者には外の世界がどういうものか、全く解らない例だろう。

科学技術はハサミだ。よく切れるほど良い。
刃物は使いようで、利器にも凶器にもなる。学問や技術をどう使うかは、社会や政治の責任で、専門家の責任ではない。

原子爆弾製造を主張したのはアインシュタインだが、実際に製造して使用したのは政治家だ。
人間社会を超越した分野に没頭する科学者が、自分に考えることのできる現実対策として、原爆しか思いつかなかったことを責めることはできない。

学者や芸術家に社会的責任を問うのは矛盾する。人間社会の常識で考えては真理と対話することができない。人間社会を維持コントロールするのは、政治家や宗教家の仕事だ。

原発は今後とも研究はなされるべきだと思う。しかし、不完全な技術を、金や利権まみれの社会に置くには危険すぎる。
その上、「原子炉」の名前はたいそうだが、ただの蒸気発電だ。

土建業の社長がパソコンを使い始めた時、「機種とソフトには相性があるから、暴走することがある」と、何度言っても
「メーカーが製品として売っているのに、そんな馬鹿なことがあるか」と、とにかく高い物を買おうとした。

どんな半端な発展途上の技術でも、商品となれば、疑わなくなる


奥羽越

2011年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

幕末から明治維新、朝敵にされた東北はひどい目にあった。
それも、最も忠義心が強い故だった。
西の新政府になっても、やはり忠義で、日露戦争で膨大な犠牲者を出し、太平洋戦争でもそうであったが、いずれも黙として愚痴を語ることがなかった。

日本成立の前後から、関東・東北には多くの渡来人が移住し、その後も、中央を追われた人々が、幾重にも移っていったが、今日でも東北には蝦夷の文化が根付いている。

蝦夷は、原日本人である縄文人と同根らしく、風貌や感性など、沖縄などとも通じるところがある。
沖縄と東北の中でも、泣きと諦めの文化と、粘っこい頑固さとが入り混じっていて、後者はおそらく渡来人の文化だろう。

大陸から渡来人が来る以前の、縄文時代の日本列島は環太平洋の世界であり、釣り針の研究や、漁業に関する言葉なども説得力があるが、ハワイ語の語感(発声法)と、「プツプツ」弱く切れる感じの沖縄の人の語感とが、似ていることに驚いたことがある。

言語研究と言えば、単語やアクセント、語順の話しか知らないのだが、言葉にはリズムや言葉の相「言語相」のようなものがあって、(よくある外国語の物マネ)長い年月を隔てても、案外これは保たれるのではないかと思っている。

外国語の上手な人は、単語や文法より、まず言葉のリズムを体得する。
山形弁のダニエル・カールなど典型だが、
逆の例として、ドナルド・キーンは、日本人が日本語や日本文化を教わるぐらいの人だが、いまだに、強烈な英語なまりが抜けない。

話を東北文化に戻すと、おそらく縄文から続く、静かで控えめな文化は、江戸弁にも影響して、言葉尻を消すのが江戸の上品とされており、九州のたたみかけるような早口や、関西の二音節語*や「暑い暑い」のような繰り返しの厚かましさとは隔絶している。
*「~やで」の「で」が「De」ではなく「DeE」になる)

ただし、環状言語圏のせいか、福島や北関東は九州と同じ、たたみかけるような話し方をする。主張もきつく、両者が幕末に対峙したのは、何か因縁を感じる。

幕末以来の海王星が戻ってきた。
東北の人はまた故郷を追われる。故郷を追われたユダヤ人は優秀な人材を輩出した。苦境の中で人は研ぎ澄まされる。
幕末明治期には、東北から、新渡戸稲造、新島襄、津田梅子、野口英世、安達峰一郎・・・など、優秀な人材を輩出し、故郷を追われた人々は北海道開拓に貢献した。

この苦境はまた、必ず東北を強くするだろうし、東北の文化が日本に再配分されて、日本人がまた、心の姿を取り戻すことを期待したい。


狼が来た

2011年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム

大津波が起こった時
これまで、あれだけの津波情報や、津波警鐘番組が繰り返されてきた日本だから、あまりにも少ない被害者に、世界中が、さすが「TUNAMI」の先進国だと、あっと驚くだろう、と期待した。しかし、結果は無惨なものとなった。被害者の数はいまだに計り知れない。

同じ日、避難指示が出た、紀伊半島や四国の沿岸でも、実際に避難したのは、わずか2%だったそうだ。

一方で、津波に襲われた原発は、いまだに、放射能汚染エリアに入れない状態が続いている。
ロボット先進国とか、小型無人ヘリとか、さんざん聞かされてきた話は一体、何だったんだ。全く理解できない。
それどころか、海外からロボットを貸しましょうと言われる始末だ。

被災地に支援物資が届かないと、報道は既に入っているのに、なぜ、全力投球の自衛隊が、ヘリで投下できないのか、不思議でならなかった。

日本人が傷ついたのは、大災害の不幸だけではない。
日本の経済や技術、先進社会の叡智、そういうものへの信仰やプライドが、ボロボロになった。もちろん対外信用も。

出口からの発想
今になって、防災の専門家が言い出したことは
「災害が起こらないようにすることより、起こった時どうするかを、考えなければならない」

何度も言うことだが、何事に於いても日本は、「入口」しか考えない。
入試、入社、結婚から、一見さんお断り・・・まで
入口を、通すか通さないかで考える。
真珠湾攻撃で「勝った」と思った時から、何も進歩していない。

防災も、入口で防ぐことばかり考えて、防ぎきれずに、起こった場合のことは考えない。起こってしまったら、「お手上げ」になる。

システムより「人間力」とは、とっさの時の対応力のことだ。
「予定や訓練」より、安全避難の意味と、臨機応変な状況判断の思考力を身につけることだ。

どの「程度」で防げるかではなく、「防げない」ものからどう逃れるかだ。
必ず起こる大津波を前提にすれば、あんなバカげた原発設置はあり得ないし、防潮堤に1000億以上かけるのなら、町の再開発をすべきだった。
「予定や避難訓練」は、形骸化するから逃げる人がいなくなる。

悲しい、悔しい


なるほど

2011年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日も不調で、結局ブログを書けなかったが、少し楽になったので、書こうかなと思ったら、また、震度6強だ。
(大体、楽になった頃に起こるようだ)

やっぱり、この大災害は、海王星が影響している。
正式に海王星が魚座に入ったのは4月4日だが、先月11日の東日本大震災(m9.0)は、双子座の月が、海王星と90゜、火星も太陽も魚座にいた。
3月11日14:31月が双子座に入宮→14:46震度7/m9.0が発生。

今回の最大余震は、
4月7日 20:21月が双子座に入宮→23:32震度6強/m7.4が発生。

この春、活動宮の天王星、木星、土星の影響で大事件が起こると思っていたが、実際には大震災は魚座の海王星で、変容宮の方で起こっている。
世間を騒がす大事件は天王星だが、災害そのものは元来、海王星の働き。

災害は、それ以上でも以下でもないが、それによって起こる社会現象は、天王星や木星、土星の影響で、政治や経済、人心の感情を動かし歴史を左右する。
むろん、引き金は災害とは限らない。

海王星や冥王星という、長いスパンに人間は気づかないが、周期の短い惑星周期は刺激的で、人間社会に直接影響し、その最も長い周期が、時代を感じられる天王星だ。

海王星のような長い周期の影響は人間は無自覚だが、歴史的に見れば、誰をも、「時代の子」にする。
また、魚座の海王星については災害と狂乱、映像など、ハッキリとは認識できないまま魚座の現象が社会化する。


ドッキリ

2011年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム

悪い情報
悪い情報から告げるのがアメリカ式だが、良い情報と悪い情報を、混ぜて出すのが日本式のようだ。

アメリカ式
「お父さんが亡くなりました」「あなたへの遺産相続は10億です」

日本式
「もし、お父さんが亡くなった場合、あなたが受け取る相続額は、亡くなり方や、そのタイミングによって、20億から1億までの差があります。」「現在の不動産価格では、仮に、受け取るような事態になれば、相続税等の諸経費を引いた場合、4500万にしかなりません。まことにお気の毒ですが、この用紙にサインと捺印をお願いいたします」
「???・・・ ビェーッ!!! 父さんが死んだ

もううんざりだ
一朝事あれば、すべて明るみに出る。
それまで良しとしてきたことの舞台裏が現れるし、居合わせたすべての人が本性を現わす。

津波を見て、「かわいそ~」と、泣いていた人達が、原発事故で放射能が我が身のこととなると、一斉に修羅場を演じ始めた。

アメリカや日本の近隣諸国では、国民がパニックになり、次いで、日本政府への批判に向かい、日本そのものの非難に変わった。

原発先進国アメリカは、あたかも自国では起こりえないかのように、事故状況を日本政府の不手際と言いつのり始めた。

日本国内では、それに便乗して、これまでの原発政策の張本人である現在の野党が、罪を覆うため、政府の不手際を言いつのる。

フランスは、自国民に技術の優秀さをアピールするため、サルコジ大統領が一度も来ようとしなかった日本に飛んで来て、
「助けてあげましょう」と言う。日頃、日本嫌いを公言し、日本の悪口を言って回っていた大統領は、顔が硬直していた。

中国は、日本の事故で学習するから大丈夫と国民を押さえ、むしろ、この非常時に日本がどの程度反応できるかに関心を持ち、尖閣まで飛行機やヘリコプターを飛ばしてきた。軍事国家の面目躍如だ。

韓国は、地球を一回りした放射能が韓国で観測されたと騒ぎ、原発処理に参加させろと、いつもの「イッチョ噛み*」精神を発揮していたが、それが拒否されると、
汚染水放出を聞くや、「国際法違反だ」と、日頃言われることを、ここぞとばかりに言い返している。

ロシアは、例のごとく周りの様子を見ながら、そろりと、
「間違いなく、われわれにも影響がある」と、一言添えている。

人も国も、切羽詰まると本性を現す。
日本だけがドッキリカメラではない。これは本当だ。

*:「イッチョガミ」
オレも「一丁、噛ませろよ」と、どんなことにも首を突っ込んでくる人。後で、さもその主役のような顔をする。


無風無評

2011年04月05日 | 新鎖国論

放射性物質による農産物の出荷制限。
風評被害とにらみ合わせて、地域や作物を細かく別けて、出荷停止や許可をすることにしたそうだ。

これでは、ますます分かりにくくなくなって、風評被害という点ではかえって、全体的な拒否が広がるのではなかろうか。

一連の原発事故の対応は、コネコネと、いかにも日本的だ。
細かい事にこだわり、そのつじつま合わせで、事が処理できていると思っている。

正確なつじつま合わせに関しては、今の日本の中堅世代が、偏差値受験世代であることと関係あると思う。あらゆる事の正確さにこだわり、大局が見えない。(当人達は無自覚だが)

森、麻生、菅、仙石など、前世代の、大局を求める「雑さ」が、理解できず、細かなことに噛みついて、全部潰してしまった。
(もっとも、この面々は、自動車人間のエンジンだから、極端に脇が甘かったが)

それでもまだ、日本ではつじつま合わせも通用するかも知れないが、日本語の機微を解さず、遠くで又聞きをしている海外の人々には全く理解できない。
「何か分からないが、日本ではとんでもないことが起こっている」
としか思えないだろう。

海外どころではない。日本でも、よく分からないから、とにかく県名を見ただけで買わなくなる。

地産地消
今回の大災害は、東京一極集中の「不都合」も、洗い出した。
電気や交通のみならず、「食と職」の地域別機能分化の不都合も大きい。

他府県に出荷するために栽培するから、地元の実態を知らない人に風評が広がる。また、特産地域が全滅すると、消費都会も産地も困る。
だから、スパッと全域停止ができず、現在のようなヤヤコシイ出荷制限になる。

地産地消の自給自足なら、風評など関係なく地元で選り分けて消費すれば良いことだし、もし、その地域消費用の作物が全滅なら、その地域全体の作物を廃棄し、他の地域から少しずつ必要なだけ融通してもらえばいい。

日本社会は、完全分化して、日本列島が一つの工場システムになっている。一カ所で配線が切れると全滅する。
そして、今や、それが世界にも広がっている。

新鎖国論は、地域分権、地産地消サイクルを進めることで、複合社会のしなやかさを再生し、日本という文化的独立を保つことを可能にする。
さらに、世界中が細分複合化することで、国家枠を解消し、逆の形で、真のグローバル化を可能にする。


避難事態

2011年04月04日 | 日記・エッセイ・コラム

いつも思うのだが、
「避難指示」の用語は、一刻も早く止めるべきだ。
昔は「避難命令」と言っていたと思うのだが、「命令」が人格権無視で強圧的とでも言う人が出たのだろうか、いつの間にか、意味不明の曖昧な言葉「指示」になっていた。

「避難指示」が、無視されて、多くの被害者を出したのは、
確か、04年の円山川決壊だったと記憶しているのだが、
「放送を聞いても、意味がよく解らなかった」という声が多かった。
その時、「避難指示」という言葉を、初めて憶えた。

それでも、「指示」とは、どうも「強制的に」という意味なのだろうかぐらいにしか理解できず、その後も、各メディアで、この「指示」の意味を詳細に解説するのを、聞いたことがない。

今では、ほとんどの人は、「最強の避難レベル」と知っているだろうが、言葉に「切迫感」が無い。

「しじ」という言葉は「指示」よりも、選挙支持者などの「支持」の方が馴染みがあり、「避難することを支持する」
つまり、避難することに「賛成」します、と感じられ、「勧告」よりも、「どうでもいい」響きに感じられる。

今回の大津波でも、「避難指示」と放送していた消防団員が、だんだん切羽詰まってきて、終いには「避難命令」と言いだしていた様子が伝えられていた。

「避難指示」は、現実的ではない。役所の机上論で生まれた用語だ。

誰が聞いても『これは大変な事態だ!』と思える言葉にすべきで、
「避難命令」がダメだと言うなら、

「絶対避難」とか、「避難事態」とでも、言ってはどうだろう。


転んでも

2011年04月03日 | 日記・エッセイ・コラム

3月31日。スイスで原発運営組織で爆弾が爆発した。過激派によると見られている。

原発反対で爆弾事件を起こすのもどうかしている。
さすがに、原発に仕掛けなかったところは、突撃した日本の街宣車よりは、まだ、理性?が残っているようだ。

スリーマイル島以来、原発には一貫して反対だ。
しかし、原発そのものに反対しているわけではない。
原発に依存することに反対している。
「FUKUSHIMA」を含め、いずれの事故も、過信やウッカリなど、
人間の精神的な欠陥から起こっている。

プロメティウスの罪とは、不完全な人間に火を与えたことだ。
確かに便利には違いないが、人間は神のようには火を制御できない。
たちまち、戦争に使い始めた。(神も雷を使うが)

それどころか、原子力の火は、先ず戦争のために手に入れた。
それを言い訳するかのように、発電に使っているが、出発からして本末転倒の技術なのだ。

いわば、鉄砲を使って、リンゴ狩りをするようなものだ。
リンゴを採る方法はいくらでもあるのに、わざわざ、ライフルで一個ずつ撃ち落とし、
「ほらね、ライフルはこんなに便利でしょ」
と言っている。それをみて、世界中が、
「おらが村も、これからはライフルを揃えねばな・・・」

こんなバカげたことなのだ。

開拓時代に成長した銃器産業の為に、アメリカはいまだに銃社会から逃れられない。
「FUKUSHIMA」の前に、原発政策は撤退に向かうべきだった。

カルフォルニア地震を見て、日本の建設関係者は、「アメリカの建築技術は未熟だから」とバカにしたが、阪神大震災で同じ事が起こった。

原発事故の危惧に対し、関係者は「日本の技術は優秀だから」と威張っていたが、それどころではない結果になった。
それでもなお「今回は地震のせい」と言っている。それなら世界一、発達している日本の地震学や地震対策はどうしたのだ。

チャレンジ精神は必要だとしても、人間は謙虚でなければならない。
自ら犯す過ちを考慮するなら、山越えより、遠回りしても、安全で確実な道、原発より自然エネルギーだ。
結果的には、それが発展の道だろう。

世界で一番
「FUKUSHIMA」で、日本の評判は急降下している。
世界が注視する今だからこそ、逆手にとって
日本は原発から完全撤退し、新エネルギーをリードする
と、宣言するチャンスだ。

そうして、新エネルギー技術・学術のメッカにすることで、次のパラダイムのトップランナーになれる。

「世界で一番」を目指そう


時の趨勢

2011年04月02日 | 日記・エッセイ・コラム

そろそろ、地震以外のことを書こうと思うのだが、とても無理だ。

天啓」で、暴かれた日本の旧弊を幾つか挙げたが、
もう、本当に、際限なくゾロゾロと出てくる。

癒着して腐りきった官僚と政治屋には、手の施しようがない。
不可解な救援の遅れは、平時と同じように対応した「官僚主義と規制の壁」が原因だと、各方面からの怒りの声が聞こえる。

官僚を押さえられない政治屋政府に対し、野党は、この期に及んでも、筋道論と称して、つまり官僚と同じ論理で、協力を拒否した。

その上、野党は原発事態を、総理の視察にすり替えたが、元々、自民・官僚・財界が、長年にわたって癒着して推し進めた原発政策の結果だ。
初動がどうのと「重箱の隅」の次元ではない。初動は官僚と癒着した東電の問題だ。相も変わらぬ政局視点のマスコミに、野党が喜んで便乗したが、天に唾する態度だ。党利党略しか頭にない。
本当に、マスコミも政治も腐っている。

全く、昭和初期の、「クーデター前夜」 だ。

時代も状況も違うから、軍隊によるクーデターは起こらないし、そんなことはあってはならないが、「借り物の民主主義」が試されていることは間違いない。

明治維新は武士階級が、昭和初期は軍が強制力だった。敗戦時は占領軍が強制力になった。
いま、日本の権力を気取っているのはメディアだが、何の提言もない「野次馬イチャモン集団」に堕落した、ただの瓦版屋だ。

第三の力
この未曾有の事態は、与野党どちらが担当していても大差ない結果だっただろう。今の政治制度では、調整型の人気取りしか政治家になれないからだ。

今、必要なリーダーシップは、国家組織を、超法規的に動かす
「意志と知恵と行動力」だが、日本の政界に人は見あたらない。
せめて、政局バカを切り捨て、大同団結の新党しかないだろう。

今回、予想以上の働きをしているのは、地方自治体ではないだろうか。
関西広域連合を始め、県単位で直接、被災自治体の支援に乗り出した。自主的な動きで、地方分権が着々と、形成されている。
これがもっと進化すれば、国の形が変わるかも知れない。
地方分権・・・権力とは頂くものではなく、確立するものだ。

21世紀は、中央制御より、ネットワークの時代であり、相次ぐ超大事件が、古い巨体を足下から打ち壊し、自動的に、大転換を成し遂げていく。

それが、歴史であり、時の趨勢というものなのだろう。


アマテラス(2)

2011年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

アマテラス(1)」で、日本人の原子力信仰のワケを考えたが、
もう一つ、世界の中で、おそらく日本人だけ違う感覚ではないかと思われるのが、放射能への恐怖感だ。

世界の人々にとって、放射能は「得体の知れない恐怖」だが、日本人にとっては、「知っている恐怖」だ。
もちろん、核実験やチェルノブイリのように、日本以外でも被爆体験をした人達がいるし、ニュースとしては認識しているだろうが、社会の中に被爆体験が存在しない。

日本の場合、自分自身が被爆していなくても、情報、教育、生活を通して、核の恐怖が追体験され、国民の全てが、潜在的被爆者になっている。
第五福竜丸事件なども重なり、核に対する恐怖心と嫌悪感は、議論の余地がない。

しかし、その反面、原爆の現実も見ている。外国人にとって、核はリーサルウエポンであり、核の向こうには何も存在しないぐらいの恐怖感があるが、日本人は65年経っても、被爆体験者から話を聞くことができる。

同じ拒否感、同じ恐怖心でも、体験したことのある恐怖と、体験したことのない恐怖は種類が違う。
体験したことのない恐怖は、際限なく膨らむ。

日本人が放射能の話を聞く時は、「どの程度?」と、現実的な聞き方ができるが、体験したことがない人にとっては、「有る・無し」の問題だ。程度問題で考えることができない。

世界中に、この、とてつもない恐怖感があったからこそ、核は抑止力として、長崎の後、一度も使用されることがなかった。逆に、北朝鮮は核保有にこだわり、韓国では日本に原爆を打ち込む小説が大ヒットした。

今、中国では日本の貨物船が荷揚げできず引き返している。上海では日本人の難民が押し寄せると心配している。韓国では日本が避難地確保のために攻めてくると、大まじめに言う人がいる。
(人間は自分がすることを、人がすると思うものだ)

世界の過剰反応に、日本人は面食らっているだろう。
反核、反原発の人でも、世界のパニックには苦笑いしているのではなかろうか。

日本人の原子力や放射能に対する見方は、かなり専門家に近い感覚なので、大きなパニックにも成らない。
だが、反面、専門家というものは、えてして、現実感を見失いやすい。

端から見れば、どう考えても、ゆゆしき事態にもかかわらず
「ほー、面白い現象ですなあ」と、淡々と見過ごしかねない。