魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

発展途上

2011年04月11日 | 日記・エッセイ・コラム

2008年、ガソリンが猛烈な値上がりをしていた頃、80代の大企業の技術者OBの方と世間話をしながら、エネルギー問題の話になった。

「何で電気自動車が普及しないんでしょうね」などと話すうち、
「発電も自然エネルギーに傾注すべきですね」と言うと、
「原子力はどうなんですか」と言われ、
「自然エネルギーが普及しないのも、政財官の癒着で、問題を無視して原発路線をゴリ押ししているからですよ」
と、日頃の不満を言うと、寂しそうな顔をされたので、
ハタと、その方の出身企業が原発にも関連していたことを思い出し、『しまった!』と思ったが、
温厚で賢明な人柄なので、何もおっしゃらなかった。

後々、かなり気にしていたのだが、今回の事故で、相手が誰であれ、信念は言うべきだと、少し楽になった。(いくら信念でも、バカや噛みつきガメでは始まらない。逆に、そう思われたのかも知れないが)

そうとう昔、20代の頃、知人以上友人未満の付き合いをしていた原子力研究者がいた。クラッシックが趣味でヴィオラを弾いていたが、シンセサイザーにも造詣が深かった。この人も、極めて温厚で、何のてらいもなく、ひたすら、趣味と研究に没頭していた。
その後、原発関連の企業に入り、渡米して、しばらく手紙など来ていたが、音信が途絶えてしまった。

当時から原発反対だったが、それは政治の問題だから、その話題に触れることはなかった。

また、ある原子力分野の教授のもとに、新聞記者が取材に来たので、その教授は『素人に話して解るかなあ』と思いながら、それでも問われるままに解説をした。後日、記事を見ると、玄人でもこうは説明できないと思えるほど、要を得た記事になっていたので驚いたという。
研究者には外の世界がどういうものか、全く解らない例だろう。

科学技術はハサミだ。よく切れるほど良い。
刃物は使いようで、利器にも凶器にもなる。学問や技術をどう使うかは、社会や政治の責任で、専門家の責任ではない。

原子爆弾製造を主張したのはアインシュタインだが、実際に製造して使用したのは政治家だ。
人間社会を超越した分野に没頭する科学者が、自分に考えることのできる現実対策として、原爆しか思いつかなかったことを責めることはできない。

学者や芸術家に社会的責任を問うのは矛盾する。人間社会の常識で考えては真理と対話することができない。人間社会を維持コントロールするのは、政治家や宗教家の仕事だ。

原発は今後とも研究はなされるべきだと思う。しかし、不完全な技術を、金や利権まみれの社会に置くには危険すぎる。
その上、「原子炉」の名前はたいそうだが、ただの蒸気発電だ。

土建業の社長がパソコンを使い始めた時、「機種とソフトには相性があるから、暴走することがある」と、何度言っても
「メーカーが製品として売っているのに、そんな馬鹿なことがあるか」と、とにかく高い物を買おうとした。

どんな半端な発展途上の技術でも、商品となれば、疑わなくなる