魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

復興時代(2)

2011年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

自粛ムードは、必ずしも誹謗中傷だけのせいでもない。
津波映像のショック、その後の惨状をみている内に、日本中が被災者になったような心理の、疑似被災者になっている。

観光客や宴会のキャンセルも、自粛というより、本当に、そんな気になれないからだろう。
しかし、ここが当事者と疑似体験者の違いだ。

どんな悲劇も、当事者にとっては悲劇ではない。立ち向かわなければならない現実だ。例え、泣き叫んでいる時でも、次には、どうにかしなければならない。

ところが、話に聞いたり、映画を観たりする人は、自分がしなければならない現実はないから、ただ、どっぷりと感傷に浸る。
それが、当事者以上に、落ち込む理由になる。

いつも思うのだが、
不幸や苦労というものは、本当に苦労した人は苦労を感じているヒマがない。だから、後々も「苦労を語る」事は少ない。
ドラマチックなスポ-ツの試合について、当の選手達はあまり語らない。当事者にとっては物語ではないからだ。

苦労談を語る人の多くは、その場にいたかも知れないが、克服に全身全霊で、立ち向かった中心人物ではなく、応援団や参加者だ。

苦労談を聞く時は、その話の登場人物を、よく注意して聞く方がいい。
迷惑を掛けた人や、ひどい仕打ちをした、話の引き立て役の方が、案外、本当のヒーローだったりするものだ。

当の選手より、観客の方が、「戦ったような気になる」
不幸な出来事は、当事者より他人の方が落ち込む。例えば、海外の人の同情が大きいのに、むしろ日本人が驚くようなものだ。
情報は伝えられた人の中で増幅し、頭の中で、勝手に尾ひれが付く。

被災地の人々が、とてつもない現実を前に、それでも、気持ちを奮い起こして、何とか笑顔で立ち直ろうとしている時に、

被災者でもない人間が、勝手に落ち込んで感傷に浸り、「元気になれない」などと、自粛していて良いものだろうか。

直ちに日常を取り戻し、例えその気になれなくても、元気いっぱいの笑顔で、
「俺たちは元気だぞ、大丈夫だぞ、何時でも、何でも言ってくれ」と、被災者を安心させることが、被災してない日本人の義務ではないだろうか。

自粛で麻痺した、阪神大震災の教訓から、今回は「自粛するな」の声はあるが、そんなものでは足りない。
空騒ぎでも、派手に金を使わなければ、日本は凍死する。

「眠るな、眠ると死ぬぞ!」