魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

善意の素

2011年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

刑務所の受刑者が震災の義援金を「使って下さい」と、出しているそうだ。これは、暴力団の炊き出しと同じ、純粋な気持ちによるものだ。
しかし、シャバにいて、ゆすりタカリを生業にしている立場と、刑務所で、名も告げずに寄付する行為とは結果が違う。例え同じ暴力団員であってもだ。

暴力団の炊き出しは、社会に直接参加しているから、その結果にしがらみが存在している。しかし、刑務所の受刑者の寄付は無名であり、直接に社会的影響がない。
後で、「オレが刑務所から出した金、受け取っただろう」と言うことはない。

そうしたしがらみを避けるために、関東の暴力団はこの度、姿を隠して炊き出しをしたそうだ。義侠心を大切にしたのだろう。

刑務所の受刑者のお金は、当初の所持金や、刑務所で働いたわずかな賃金だが、中には、全額出す人も相次いでるそうだ。
少しでも人の役に立ちたいと思う懺悔の気持ちや、「可哀相に、気の毒に」と率直な気持ちからの行動だろう。

大騒ぎをして寄付金を出すと言う人は要注意だが、後の災いも考慮した上で、受け取るしかない。と「ぼんぼん」で、書いた。
あえて誰とは言わないが、後で、「寄付をしたのに気に入らないことがある」と、集まった金を減らし、何のかんのとイチャ文を付け始めた。

ゆすりタカリを生業とする人の「好意」は、感情論で終始するから、ものすごく感じが良い時から、いきなり、毒づきに変わる。
だから、親切だからと言って、うかつに信じるわけには行かない。

感情論で生きている人は、そのことに自分では全く気づかない。
「それは感情論ですよ」と言うと、カーッとなる。
理性より、感情が上回るから、自分の感情を理性的に見つめられないからだ。

こういう人は、過去と現在が客観的につながらないから、現在の言い分を主張するためには、何でもありのデタラメを並べて、正当化する。
それがデタラメだと指摘すると、また感情論で上乗せする。
こういう人に、理を説こうとしては、デタラメの世界に取り込まれてしまう。
歌手や役者、そして無節操なマスコミの世界と同じ、扇情だけで生きている。

一切、反応しないことが一番良い。

刑務所の受刑者の義援金は、多分に感情論もあるだろうが、一度出された後は、後でそれが駆け引きのネタになることはない。
その時の純粋な気持ちが、そのまま被災地に届くだろう。