魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

褒め殺し

2009年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

勲章、ブランド、地位・・・
人間が故意に作り出す、あらゆる基準に、まったく価値を感じたことがないから、特にどうこう言う必要もないのだが、オバマ大統領のノーベル平和賞には、本気で笑ってしまった。

「何も業績がない」からではない。
業績に与えられること自体に価値を感じないのだから、業績がなければおかしい・・・、とも思わない。

誤解の無いように断っておくと、ノーベル賞を受けた業績や人物に、価値がないと思っているわけではない。
あらゆる業績や人物には、それぞれに価値があるのであって、それを誰かに「格付け」してもらう必要はない。
立派なことは立派なのであり、たとえ格付けされても、欠陥もあれば失態を招くこともある。

ノーベル賞でも、受賞した人が、アインシュタインのように、その後失態を演じたこともあれば、第一、ノーベル自身が、ダイナマイトの陰の部分を悔いて生まれたのがノーベル賞だ。
賞というものには、免罪符の役割もあるのだろう。

いずれにしても、こうした付加価値は、社会を秩序づけるためにある。
賢者の世なら、勲章も、ブランドも、地位も要らない。
互いが、認め合い、わきまえ、責任を果たすからだ。

しかし、賢者ならぬ人の世では、付加価値で位置関係、序列を定め、その価値を認めることで、その一般常識に従い生きている。
「偉い」人を認め、良いものを欲しがり、価値ある人間になろうとする。

そして、秩序に従わなければ不安になる。同時にそれが人を縛ってしまう。節目節目で、この価値観に囚われ、抜け出せず不幸になる。

ルール・ビジネス
いつも言うことだが、ヨーロッパの抜け目なさは「ルール作り」だ。
オリンピック、ワールドカップ、ノーベル賞、知的所有権・・・
こんなものを、何が悲しくて渇望するのか。
明らかに利害のためだが、「ルール・ビジネス」の商売上手に踊らされ、金科玉条のごとく、それに従い、得たいと思い、喜ぶ。

ノーベル賞をもらって大喜びをする国民にくらべ、案外、もらった当人はそれほど喜んでいない。益川氏はその正直な例だが、価値を自分で決められない人間が、喜ぶのだ。

忘れてはいけない、ノーベル賞は受賞した人より、それを授ける者の方が「立場」は上なのだ。
その自負が、ノーベル賞で世界を平和に導こうという意図につながる。それが平和賞だ。善意ではあっても驕りであり、凡夫の浅知恵となる。
佐藤栄作、金大中・・・なんじゃこりゃ